めばえ



ピピピ…ピッ。

目覚ましを止めると、土門はむっくりと起き上がる。

「……………」

ガシガシと頭を掻き、『ふあ〜』と欠伸をしながら浴室へ向かう。

熱いシャワーを頭から浴びるうちに、ようやく目が覚めた。

滝行のように湯に打たれながら、土門は昨日のことを思い返していた。

何でこんなことになってしまったのか。
自分でもまったくわからない。
これまでだって同じような場面は何度もあった。
それでも取り乱すことなく、想いは秘めたままマリコと接し続けることができていたのに。

「あいつか…」

土門は警察庁からやってきた、マリコの元旦那の顔を思い浮かべた。

倉橋拓也。
あの男が現れたことで、土門とマリコの間で何かが狂い始めた。
均衡を保っていた天秤が、まるでシーソーのように揺らぎ、定まらない。

倉橋が現れてから、正直、土門は気が気ではなかった。
なぜなら倉橋からの警察庁への誘い…。
それがマリコを悩ませ、徐々に笑顔を奪っているように思えたからだ。
だから昨日土門はマリコを屋上へ呼び出し、話を聞いてやるつもりだった。

それが、なぜか…。



「科捜研の皆や、土門さん、蒲原さんと一緒に仕事をするのはとても楽しいの。その皆と離れるのは…」

マリコはそこで黙ってしまった。

「俺たちがいなくても、倉橋室長がいる。彼は俺たちなんかよりずっとお前のことを分かっているだろう。きっとお前を支えてくれるはずだ。だから俺は安心して……」

心にもないことを、と土門は苦い汁を飲み込む。

「本当?」

「なに?」

「本当にそう思ってる?」

探るようなマリコの眼差しに、土門の視線は揺れた。

「もちろん、本心………なわけないだろう!」

そう。
本心は180度違う。
だって、本心は…。

「行くな!ここにいればいい。俺たちの…いや、俺の傍にいろ!」

一度決壊した堤防からは、とまることなく気持ちが溢れ出していく。
十数年という長い年月に蓄積した想いの量は底なしだ。

「俺にはお前が必要だ。お前が大切なんだ」

やめろ!と自分の心が叫ぶ。
今のマリコとの関係を壊すつもりか!?と。
けれど、どれだけ理性を総動員しても。
口が勝手に動く。
手が勝手に伸びていく。

「榊。俺はお前が好きだ。もうずっと……」

衝動的に土門はマリコを抱きしめていた。

何て細いんだ…。

土門は改めて驚いた。

こんな小さくて細い体で、マリコは犯罪と戦っているのだ。

守りたい。
艶のある髪も。
しなやかな体躯も。
伸びやかな声も。
そして、魅力的な瞳も。

どうか守らせてくれ…。
他の誰でもなく、この俺に。

その切なる願いの答えは、腕の中から聞こえてきた。

「私も、ずっと好きだったの」



手のひらと心は繋がったまま、二人は夕闇が落ち始めた京都の町並みを見下ろしていた。

「榊、明日から送迎してやる」

「え?いいわよ。土門さんだって忙しいし、遠回りになるでしょう?」

マリコはやはりマリコだ。
呆れるような、嬉しいような…。
土門は優しくマリコに言い聞かせる。

「だからだ」

「?」

「忙しいから、少しでも一緒にいる時間が欲しい。遠回りだから、お前と長くいられる」

照れているのか。
目をしばたかせながら、マリコはコクリと頷く。

その仕草ひとつに愛おしさを感じてしまう自分が可笑しくて、幸せで、土門はマリコの手をぎゅっと握り直した。



今日からマリコを迎えに行く。
そのために少し早起きをした土門は、いつも通りに新聞を読みながら、コーヒーとパンを頬張る。
食洗機に食器を放りこむと、身支度始めた。

ヒゲを剃り、歯を磨く。
剃り残しがないか、顔を触って念入りに確かめる。
口臭予防の薬品で、いつもより長めに口をすすげば完璧だ。

糊の効いたワイシャツに袖を通すと、自然と背筋が伸びる。
土門は迷わず、マリコからもらった赤いネクタイを選んだ。

身支度を終えて時計を確かめると、そろそろ時間だ。
土門は車のキーを片手に部屋を出た。


通勤で混雑し始めた道路をすり抜け、マリコのマンションの駐車場へつくと、土門はメールを打った。

しばらくすると、エントランスにマリコが姿を見せた。

カツンと靴音が響くのは、珍しくヒールを履いているからだろうか。
歩くたびに靡く髪は軽やかで、唇には柔らかなピンクのルージュがのっていた。
カットソーと色を合わせたのだろうか。
マリコの表情をより明るく、女性らしく見せていた。

「やばいな……」

土門は近づいてくるマリコに見惚れた。

朝からあらぬ妄想を抱いてしまう。
頬は赤くなっていないだろうか。
顔はニヤけていないだろうか。

これから毎朝この衝動と闘うことになるのかと思うと、少しだけ…土門は送迎の約束を取り付けたことを後悔した。
けれど同時に、そんなマリコを短い時間でも独り占めできる幸せも噛みしめた。

目まぐるしく動く感情に翻弄されている間に、マリコは助手席の前までやって来ていた。

深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
窓を開け、土門は普段どおりに声をかけた。

「よお!」

「お、おはよう…」

「ああ。乗れ、遅刻しちまうぞ」

「あ、うん」

マリコは助手席に滑り込むと、シートベルトを締めた。

その様子を見ていた土門は、発進する前に周囲を見回した。

「榊」

「なに?」

振り向いたその唇は、やっぱり魅惑的で。
結局、土門は誘惑に負けた。

「あんまり美味しそうな色だったからな。後で塗り直してくれ」

「もう!」

マリコは唇を隠したまま、土門を睨む。

「すまん、すまん。……その口紅の色、似合うな」

どうせ聞こえやしないだろうと、土門は車を発進させた。

赤信号で停車したとき、土門はマリコがこちらを見ていることに気づいた。

「?」

視線はすぐに外されてしまったけれど、その横顔が真っ赤に染まっているのを見て、土門は目がそらせなくなった。

そして。
信号が変わったことにも気づかず、後続車からクラクションを浴びることになろうとは。
百戦錬磨の刑事も、どうやら恋には形無しだ。



fin.


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