「マリコ、新聞はあるかい？」
「マリコ、お茶が飲みたいんだが？」
「マリコ、着替えは……」
「マリコ？」

今日は休日。
普段より少しだけ寝坊をした土門少尉は、何かと妻を呼ぶのだが、一向に返事がない。

『どこかに出かけているのだろうか？』

しかし、玄関は内側から鍵がかかっていた。

『マリコはどこにいるのか…』

「マリコ？」

土間をのぞくが、マリコの姿はない。

「マリコ？」

風呂場にもいない。

「マリコ？」

不意に仏間の障子を開くと、暗い部屋で仏壇に向かい合うすらりとした背中がそこにあった。

「マリコ、ここにいたのか」

「……………」

土門少尉の呼びかけには答えず、マリコはじっと仏壇を睨んでいる。

「マリコ？聞こえないのか？マリコ？」

やや強い口調に、マリコの肩がピクリと跳ねた。

「……………聞こえています」

「こんな暗い部屋で何をしている？どこか具合でも悪いのか？」

「違います」

「では、どうしたのだ？」

「……………」

「マリコ、黙っていてはわからない」

「……………“あずみさん”ってどなたですか？」

「なに？」

「あなたとどういった関係の女性ですか？」

「マリコ…。誰に何を聞いたんだ？」

「早月さんが、あなたが最近“あずみさん”という女性と頻繁に会っているらしい、って」

「早月さんが？彼女は私がその女性と会っているところを見たと言っていたのか？」

「いえ。でもよくお電話があって、出掛けているのでしょう？それは蒲原准尉も同じように仰っていました」

『余計なことを…』
土門少尉はお節介な身内と部下に眉を潜めた。

「それで？マリコはその話を信じたのか？」

「だって、あなた。あなたは、昨晩『あずみさん』て寝言で呼んでいたんですよ」

「それは…。覚えていないが……」

「夢に見るほど、恋しい方なのですか？」

マリコは目の奥がつんとなった。
まさか夫が自分以外の女性に恋心を抱くなんて、絶対にないと思っていたのに。

昨夜二人は同じ褥で抱き合って眠った。
マリコは太い腕と温かい胸、安らぐ香りに包まれて満ち足りた眠りに落ちていた。
そのマリコの頭上から、規則正しい寝息にまじって確かに聞こえたのだ。

「あずみさん」と。

マリコを抱きながら、土門少尉は別の女性を想っていたのだろうか。
マリコはどうすればいいのか分からず、土門少尉を避けていたのだ。


「マリコ」

土門少尉はマリコの背後に座ると、両腕を妻の身体に回した。

「あなた、やめて…」

このまま、なしくずしに流されたくはない。

「嫌なら逃げればいい」

確かに土門少尉の手は、マリコにふわりと触れているだけだ。
本気で振り切れば、すぐに腕からは逃げられるだろう。
だけど。
マリコは逃げなかった。
逃げられなかった、というのが正しい。

たとえ土門少尉に想い人が出来たとしても、マリコはやはり夫を愛している。

「逃げないのか？」

「逃げたいです！でも無理なの…」

「マリコ？」

マリコは両手で顔を覆い、涙声で続けた。

「だってあなたが……………好きなの」

尻すぼみな告白に、土門少尉は妻の体を強く抱きしめた。

「マリコ！……すまない」

ああ、やはり。
夫はあずみという女性のことを…。

「マリコ、これが“あずみさん”だ」

そういって見せられたのは、古びた写真。
そこには袴を着て髪を結い上げた可愛らしい女性が写っていた。

「……………」

どうしてそんなものをわさわざ自分に見せるのか。
マリコはいっそう悲しくなった。

「これは４０年前の写真だ」

「え？」

「“あずみさん”というのは、大尉のご母堂だ」

「え？え？」

「今年還暦を迎えられるので、大尉に頼まれて祝いの準備を手伝っているんだ」

「それじゃあ…」

「寝言は自分ではわからないが、私を電話で呼び出しているのは、安積（あずみ）大尉だ」

「？？？」

マリコはますます意味がわからない。

「“安積”というのは名前ではなく、大尉の姓だ。ご母堂のお名前は“安積千代（ちよ）”さんと仰る…みな、“あずみ”と聞いて女性の名前だと勘違いしたんだろう」

「そんな！…私の誤解？」

「まあ、早月さんや蒲原准尉にも責任はあるな。だが」

土門少尉はマリコの耳元に唇を近づける。

「私の愛情を疑われるのは少々気に入らないな」

「ご、こめんなさい。あなた」

背中越しの声色は怒っているようにも聞こえる。

「二度と私の愛情を疑うことのないように、教え込まねばなるまい」

少尉の手は、マリコの首筋を怪しく撫でる。

「ま、待ってください！」

「待てない」

「で、でも、あの…………」


『こんにちはー！』

玄関から聞こえる快活な挨拶の声は早月だ。

「実はさっき、早月さんが遊びに来るって連絡があったんです…」

ちらっと夫を振り返れば、不機嫌そのもの。

「ごめんなさい、あなた」

マリコは素早く土門少尉の頬に口づける。

それでも憮然とした表情を崩さない夫が、マリコにはまるで…。
『子供みたいね』

「拗ねてるあなた…かわいいですね」

くすっと笑うと、マリコは玄関へ早月を迎えに行ってしまった。


「かわいいだと？それはマリコのことだろう」

それも今夜よーく分からせなければと、一人残された土門少尉は目を細めた。



同じ頃、土門家の玄関では。

「早月さん、いらっしゃ…」

言いかけて、ぶるぶるっとマリコは肩を震わせた。

「マリコさん、風邪？」

「いえ、そんなことないと思うけど…？」

マリコは首をかしげる。

原因は、今夜一晩かけて判明することだろう。



fin.