宮越優真と「UMA-Ⅱ」の策略により、マリコはかつてないほど追い込まれていた。
決して諦めないはずの科学者の瞳から、日に日に輝きが失われていく様を、土門はただ黙って見ていることしかできなかった。

「倉橋室長が、榊の警視庁への異動話を復活させた」

藤倉のその言葉は、マリコには寝耳に水だった。
しかし、土門は渡りに船だと思ってしまった。

マリコがこのまま京都府警に残り、いわれのない誹謗中傷を受けたり、証拠捏造といった事実無根の罪に問われたりするくらいなら。
自分よりずっと権力のある元旦那のもとで、心機一転やり直したほうが、どう考えてもマリコにはプラスとなるだろう。

雨の日も風の日も、共に捜査へ邁進してきた相棒を失うことは辛いが…。

『榊のこの先の人生が希望や幸せで溢れるように』

それだけ。
ただそれだけを土門は願った。




本部長室を辞すと、二人は渡り廊下を歩きながら屋上を目指した。

「休職も仕方ないわよ、ね……」

誰にともなくこぼれ出た言葉。

自嘲するマリコなんて、土門は見たくなかった。

「倉橋室長のところへ行ったらどうだ？」

「え？」

「京都にいてもマスコミに追われるだけだ。警視庁へ異動になるなら、早めに引っ越しても損はないだろう」

「まだ決まったわけじゃないわ」

「だが、部長も言ってただろう。その方がお前のキャリアも傷つかずに済むんだ」

「だけど…」

「なんだ？それとも京都に残りたい理由があるのか？」

「宮越優真のことは？」

「そいつは時間がかかっても、俺たちで何とかするさ」

「まだまだ科捜研のみんなとも仕事がしたいわ」

「その気持ちはわかるが…、新天地には新しい出会いという楽しみもあるぞ？」

それは、土門が警察学校への異動の際に感じたことだ。

「そうかもしれないけど……」

「榊。倉橋室長がきっとお前を守ってくれる。だから東京へ行け」

土門はマリコに向かって頷いてみせた。

本当は、ずっと自分の手で守り抜きたかった。
他の男の手に委ねるなど、癪で癪でたまらない。

けれど、土門は気づいたのだ。

マリコが幸せになれるなら。
マリコが笑って過ごせるなら、その横にいるのが自分でなくてもいいと。

そう、気づいてしまった。

だから潔く身を引くのだ。



「そんなに、私は邪魔なの？」

怒っているのか、マリコの声は高く、顔は紅潮していた。

すれ違った署員が、一瞬何事かと振り返る。
しかし、土門と視線が合うと、気づかないふりをして去っていった。

「事件の途中で逃げ出すなんて嫌よ。土門さんならわかってくれると思ったのに」

マリコはキッと土門を睨みつけた。
初めて出会った頃のように。

「私は科捜研のみんなと、土門さんと、蒲原さんと…みんなでこの事件を解決したい。そして、まだまだみんなと働きたい。ここにいたいの！」

『ここにいたい』、その言葉に土門の心は揺れる。

――――ー 何が“潔く身を引く”だ。

土門は未練ばかりの自分自身に苦笑した。

それをどう受け取ったのか、マリコはさらに怒る。

屋上の扉を開けたマリコの第一声は。

「土門さんのバカ！」

人の目がないのをいいことに、土門も声を張り上げた。

「バカはどっちだ。何で俺の気持ちがわからない！東京に行けば、お前は好きな鑑定を続けられる。ここにいるより、ずっと幸せになれるんだぞ！」

「私にとって何が幸せかなんて、私にしかわからないでしょう？どうして土門さんが決めるのよ」

「大切だからだ！」

土門はそう叫ぶと、マリコを力の限り引き寄せた。

「何より、誰より、お前が大切だからに決まってるだろうが、アホ！」

「アホって何よ！」

「バカでもアホでもないなら、マヌケだ。俺はな、お前に幸せになって欲しいんだよ。だけど今の俺にはそれができない。悔しいがな。だったら、倉橋室長に託すしかないだろう」

「土門さんは私の幸せを何だと思ってるの？」

「自由に鑑定や捜査ができることだろう？」

「そうね。でもその前に、“誰”と“どこ”でというファクターが足りないわ」

「“科捜研のみんな”と、“京都”でだろう？」

「それも一つね。でもまだあるわよ。わからない？」

「？」

「答えはね。“鈍い刑事さん”と、“その刑事さんの隣”でよ」

見れば、腕の中のマリコは笑っていた。

その笑顔は明るくて、温かくて、優しくて。
幸せな笑顔に見えた。

マリコは今、幸せなのだろうか？
自分の腕の中で。


「鈍い刑事さんて、誰のことだかわかる？」

「答える前に、一つ聞かせてくれ」

「なに？」

「お前は今、幸せか？」

マリコはプッと吹き出すと、くすくす笑いが止まらない。

「おい、笑いすぎだぞ」

「だって…ふふふ」

「もういい！」

マリコはようやく笑いを収めると、土門の頬を両手で包んだ。

「当たり前でしょう？私は今幸せだし、私の幸せには、あなたが必要なのよ。鈍い刑事さん！」

「俺は……」


――――― 本当に必要なのだろうか。


「俺は、お前が幸せになれるなら、隣にいられなくてもいいと思った」


――――― 隣にいて、……いいんだろうか。


「俺一人耐えることで、お前が笑ってくれるなら……」

土門の瞳と声には迷いが滲んでいた。

「言ったでしょ？私の幸せには土門さんが必要なの。私の幸せを願ってくれるなら……」

マリコもまた、微笑みの裏に不安を宿していた。
それでも。
震える声で、マリコは伝えた。

「隣りに…い、て。ずっと……」

土門はマリコの瞳を拭う。

「泣くなよ…。笑っていて欲しいって言ったろ？」

「だったら…泣かせないでよ。ずっと笑っていられるように、安心させて」

土門はもう一度、華奢な体を抱きしめた。

「俺の隣にいろ」

「うん」

「ずっと笑ってろ」

「うん」

「幸せになれ」

「ううん」

「ん？」

「一人では無理だから。幸せにして、土門さんが」



散りゆく桜に新芽が生まれいづるように。


「承知した」


ようやく芽生えた愛情は、いつか…満開に咲き誇るその日を待っている。



fin.