「もう一度だけ、キスしたい」

ほとんど吐息ばかりでぼそぼそと喋る土門の声は、マリコにしか聞こえない。

「何言ってるの！今はもう喋らないで！！」

マリコは涙混じりの声で土門を叱咤する。
脱ぎ捨てた自分の白衣で地面に横たわる土門の傷口を強く抑えるが、みるみるうちに白い布は赤く染まっていく。

「土門さん、意識をしっかり持って！私の声、聞こえる？」

「……………」

「土門さん！」

「聞こえ、てる。……耳元、…騒ぐ、な」

苦しそうな息づかいは、流れ出す血液に比例するようにどんどんと酷くなる。

「土門さん、しっかりして。……お願いよ」

「さ、か、き…」

力ない土門の手が、それでもマリコの頬をとらえる。
その手の大きさや温もりはいつもと変わらない。
だけどもしこの手を失ったら？
マリコは急に恐ろしくなった。
いつも傍にあると思い込んでいたものが、実はそうとは限らない。
その恐怖はじわじわとマリコを蝕み、マリコは無意識にカタカタと震えていた。

「さ、か、き……」

マリコは土門の身体にしがみついた。

「キスでも何でもしてあげるわ。だからお願い。どこにも行かないで！」

土門はマリコの言葉を聞き、その頬に触れていた手で今度はマリコの腕をつかんだ。

「榊、ほんとう…か？」

「約束よ！」

「なぁ…」

「なに？」

｢"死にたくない"ってのは、贅沢な願いか？｣




「信じられない！」

科捜研にマリコの声が響く。
時刻は２２時を回り、他のメンバーはすでに帰宅している。
マリコのラボには、部屋の主と土門の二人きりだ。

「だから、すまん」

「『すまん』で済んだら、警察要らないでしょ！」

「お前、ガキか？」

「……………」

マリコは壮絶な流し目を土門に向ける。

瀕死の土門を前に動転したマリコは、それが芝居の練習だったことに全く気付かなかったのだ。

「新人警察官の歓迎会でやるんだ。今年俺は殉職役だ」

「よく出来た血糊だったろう？」などと、本人はケロリとしている。

「殉職って…。歓迎会なのに、悪趣味じゃない？」

「バカいえ。そういう危険と隣り合わせの仕事だと改めて伝えること。それに実際その場面に出くわしたときの対処方法なんかを分かりやすく学ぶには一番いい方法だ」

「そお？」

マリコは半信半疑だ。

「今日はお前が飛び入り参加したから、少しシナリオが変わっちまったがな」

マリコはむくれつつ、思い出しては恥ずかしさに赤くなる。

「大体、土門さんが最初にヘンなこと言うから悪いのよ」

「ヘンなこと？」

「もう一度…とか。キス…とか」

「そうだったな。早速約束を果たしてもらわんとな」

土門はマリコを壁際へと追い詰める。

「な、なに…」

「“キス”でも“何でも”してくれるんだろう？」

「そんな約束、無効に決まってるじゃない」

「なんだ…そうなのか？ダメなのか？」

土門はこれみよがしに残念顔で溜息を吐く。

「………どうしてもダメってわけじゃぁ」

ほだされかけたその一瞬の隙を、敏腕刑事は決して見逃さない。

己と壁の間にマリコを囲い、土門はその顔の横に肘を固定した。

「…んっ」

無音の室内には、様々触れ合う音がする。
例えばそれは、互いの衣服だったり、手と手だったり、あるいは熱を孕んだ…。

「“何でも”の約束は、非番の楽しみにしておくか」

土門は笑いながら、「帰るぞー」と一足先にラボを出る。

マリコは赤い顔のまま、慌てて帰り支度を始めた。

その様子を外から見ていた土門は。

「"死にたくない"ってのは、当然の願いだ。遺（のこ）してなんていけるか…」



fin.