樹ダイアリー
障子戸を開けると、廊下の角に先ほど案内してくれた女性が立っていた。
「どうなさいますか?」
静かな問いかけ。
「行きます!」
マリコははっきりと答えた。
「では、こちらへ」
玄関で靴を履くと、颯が庭を眺めていた。
「最後の1冊を読まれるのですね?」
「はい」
「ありがとう。ご案内しましょう」
颯はゆったりとした歩みで、母屋を横切り、裏手に聳える山へと向かう。
200メートルも歩いただろうか。
道の先に小さなコテージが見えた。
「この山林は祖父江家が所有しています。樹はこの場所を気に入って、自分の隠れ家を建てたようです。休暇はいつもここで一人、過ごしていたそうです」
「ここに、日記があるんですか?」
「そうです。こちらです」
颯がコテージの鍵を開ける。
室内は祖父江教授亡き後も、きちんと管理がされているのだろう。
ホコリや空気の淀みもない。
颯はリビングを通り抜け、奥の木扉を開けた。
「さあ、榊さん」
そこは寝室だった。
大きなベッドと、本棚が一つ。
そして窓辺にはブランケットがかかったままの揺り椅子が一脚。
「ここ…は?」
「あなたがずっと探していた場所ですよ」
「それじゃあ…」
「樹は入院を拒み、ここで数名の医療スタッフから治療を受けていました。彼は最後に自分の体が役立てば…と、新薬の治験に協力していたんです。そして、このベッドで最期を迎えた…」
マリコはシーツに触れようと手を伸ばし、ためらう。
それでも、そっと手のひらを置いてみれば、細胞がざわめいた。
感じられるはずのない、温もりや。
聞こえるはずのない、声。
見えるはずのない祖父江樹の顔が、マリコには鮮やかに浮かんだ。
「教授…………」
マリコは思わず、シーツをくしゃりと握りしめた。
「榊さん、これが最後の日記です」
颯は本棚から1冊のノートを抜き出し、マリコへ差し出した。
「私は先に戻っています。いつまででも、あなたの気の済むように…」
颯は土門にも声をかけた。
「あなたには鍵をお預けしておきます。戻る際には施錠をお願いします」
「分かりました」
颯はコテージの鍵を土門の手に乗せると、ぐっとその手を握った。
初老の男性とは思えないほどの力強さだ。
『託された』土門はそう感じた。
“何を”か。
それは、きっと。
この瞬間、ここに“居る”、“ある”、全ての“もの”を。
颯が部屋を辞すと、土門は窓を開けた。
悲しみと戸惑いに満ちた部屋に、新しい空気と時間が舞い込む。
「榊、読んでみろ」
「土門さん?」
「俺が見届けてやる。お前と祖父江教授の眠っていた最期の刻を。それが俺の役目だ」
マリコはノートの表紙をひと撫ですると、慎重に開いた。
ところが、突然窓から忍び込んだ風がパラパラとページをめくってしまった。
「あっ!」
止んだ風がマリコに見せたのは、栞だ。
ノートの白紙ページに挟まれたその栞に、マリコは見覚えがあった。
「これは…」
それは、祖父江教授とマリコが初めて食事に訪れた、あの洋食屋のカードだった。
祖父江教授は持ち帰ったそのカードを栞として大切に使っていたのだ。
裏を返すと、二人が来店した日にちと『I&M』のイニシャル。
マリコは確信した。
もしかしたら…、ずっとそう疑問に思っていたこと。
マリコの祖父江教授に対する気持ちと。
祖父江教授のマリコへ向けた想い。
やはり、それは同じだった。
――――― 思慕の情。
ただ、恋や愛といった肉感を伴うものではなく。
多分、もっと純粋で高潔な想い。
マリコは渦巻く感情の波に溺れそうになった。
そんなマリコをとっさに引き上げてくれたのは、他の誰でもない土門だった。
「しっかりしろ、榊。まだ続きがある」
「ええ。ええ…」
しかしマリコの手はカタカタと震え、ページがめくれない。
土門は自分の手を重ね、次を開いた。