樹ダイアリー



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ここ数週間、食欲が落ちている。
あまり気にしていなかったが、気づけば背中や腰に慢性の疼痛を発しているようだ。
この不調は、何かのサインだろうか?

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数日後の日記には。

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夜中に突然激しい背中の痛みに襲われた。
うずくまったまま動くことができない。
繰り返す疼痛で眠れない。
不安もあるのか。
嫌な予感がする…。

*****

さらに数日後。

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この日も耐えられないほどの激痛だ。
最近は夜だけでなく、昼間にも痛みが走る。
これは……いよいよ覚悟が必要かもしれない。

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そして、その翌日…。

*****

内々に検査を受ける。
結果は、予想通りだった。
『我が人生に一片の悔い無し』
これまではそう思っていた。
しかし、今は。
今は、違う。
やり残したことがあるのだ。
だが。
もう…時間が、ない。

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「榊?」

「祖父江教授はね、すい臓がんを患っていたの」

「すい臓がん…」

「土門さんも聞いたことがあるでしょう?すい臓は沈黙の臓器とも言われ、がんの発見が難しいの。この日記を読むと、教授のがんはかなり進行していたようね」

「お前は詳しいことを知らなかったのか?」

「私が病気のことを聞いたのは、もっとずっと後。教授と最後に会ったときよ。でもこんな頃から…。一人で痛みと戦っていたのね」

マリコの瞳がじんわりと潤む。

土門はマリコの手を握った。
俺が居る、そう伝えたくて。

「続き…読めるか?」

マリコは小さくうなずき、ページをめくる。


*****

今日から新年度だ。
新人も3回生。
もはや“新人”とも呼べない。
これからここでは“榊くん”と呼ぶことにする。

*****

「あら…。私には相変わらず“新人”呼びだったくせに」

マリコは小さな発見に、少しだけ笑みを見せた。

*****

痛みの襲う間隔が日に日に短くなっている。
せめてあと2年。
榊くんが卒業するまでは…。

*****

「教授………」


ノートの最後のほうになると、かなり病状が深刻になっている様子が伺えた。

*****

食事が喉を通らない。
痛みで眠れない。
痛み止めの薬も役に立たなくなってきた。
あと、どれくらいか…私に残された期限は。
榊くんととも居られる時間は。

*****

「……………」

マリコは左手で口元を覆ったまま、ノートをめくり続ける。

*****

タイムリミット。
もう…無理だ。
最後に榊くんに伝えなければ。

*****

日記はそこで終わっていた。



「大丈夫か?」

土門はマリコを気遣う。
その顔色は蒼白だった。

「大丈夫…」

マリコは最後のページの日付を確認する。

「この翌日だわ。祖父江教授にね、教授室へやへ呼ばれたの。その時よ。病気について知らされたのは」

マリコはその日のことを、ポツリ、ポツリと語りだした。




「新人。私は君に謝罪しなければならないことがある」

「何ですか?」

「残念だが、君が卒業するまで指導することができなくなった」

「え?」

「申し訳ない」

「どうしてですか?」

「それは……痛っ!」

祖父江教授は背中を押さえ、よろめくと壁に手をついた。

「教授!」

「…大丈夫だ」

荒い息遣いが、それは嘘だとマリコには分かる。
祖父江教授は浅い呼吸を整え、とうとうマリコに告知した。

「君には、もう分かっているだろう。私のこの体は病に冒されている。そして、この命の残りはもう…少ない」

「そん、な……」

マリコは呆然とし、事実を受け入れることができない。

「治療は?手術で何とかならないんですか!?」

「もう手の施しようがないほど、進行している。手術を受けるだけの体力もない」

「でも、何か他に方法が!」

マリコはすがりつくように、祖父江教授の体を支える。

「新人!」

祖父江教授はそんなマリコを突き放すと、語気を強めた。

「君も科学者を目指すのなら、目の前の現実を受け止めなさい。私は…もう助からない」

最後の一言は、静かな宣告だった。

「教授…………」

「泣くな」とは言えない。
けれど祖父江教授は、マリコの泣き顔や声よりも見たい、聞きたいことがあった。

「新人。今更だが、名前で呼んでもいいだろうか?」

「え?……はい」

マリコは突然何だろうと思いながらも、頷いた。

「マリコくん」

「はい、教授」

「マリコくん。できたら、私も。その、名前で…」

「分かりました。樹教授、でいいですか?」

「『教授』は必要ない」

「え?でも………」

マリコは躊躇いつつも、唇で名前を運んだ。

「………樹さん」

「………ありがとう」

祖父江教授は目を閉じ、その音を耳に留めた。

「さあ、実験に戻りなさい」

「でも!」

「これから後任の教授がみえる。引き継ぎ作業をしなくてはいけないのだ。だから君は、戻りなさい」

「でも、樹さん………」

その響きは、祖父江教授の決意を鈍らせる。

「さあ、行きなさい!」

「また明日…会えますよね?ここで?」

「ああ。マリコくん、また。……明日」

祖父江教授は、部屋からマリコを追い出すように背中を押し、扉を閉め、施錠した。
そしてそのままズルズルと床に座り込むと、口元を押さえ、激痛に耐えた。
声を漏らせば、マリコが戻ってきてしまう。
ただそれを阻止するために、祖父江教授は歯を食いしばり、痛みが過ぎ去るのを待った。




「結局、教授はその日に退職されて、大学を去ったわ。私はできる限り教授の行方を探したけれど、見つからなかったの。もっとも学生にできることなんて、たかが知れていたから、仕方ないんだけど」

「そうだったのか」

「その後、私が祖父江教授の行方を知ったのは、大学の掲示板に貼られた訃報だったわ。辛くて、悲しくて、情けなくて。私、初めて実験をサボったの」

「……………」

土門は話の続きを待っている。

「でもね。自分でも分かっていたわ。それは教授を裏切る行為だって。実際、実験のことが気になって仕方なかったんだもの」

マリコは自嘲する。

「それからどうしたんだ?」

「どうもしないわ。ただただ、科学に邁進した。というより、それしか………私には出来なかった」

一粒、マリコの左目から涙が零れた。

土門はマリコの頬を拭うと、心配そうに顔をのぞき込んだ。

「どうする?最後の1冊は」

「読むわ。祖父江教授は、科学者としての私の礎を作った人よ。知ると知らないとでは、この先、私の科学に対する信条も変わってくるかもしれない」

「科学者として、だけか?」

土門の指摘に、マリコは曖昧に頷いた。

「私は…知らなければならないの」

マリコの決意は固かった。


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