樹ダイアリー



「樹さん?樹さん!いつき、さんっ!!!」

マリコは慟哭した。
あまりに深い悲しみを、人はひとりでは抱えきれない。

土門は崩れ落ちるマリコを強く抱いた。
自分の腕の中で、マリコは別の男を想って泣いている。
土門にとってみれば、複雑だろう。
けれど、『そんなことは些末だ』と感じてしまうほどに、腕の中の存在が土門には愛おしい。

「榊、榊…榊………」

土門は何度も何度もマリコの名前を呼び続けた。
まるで呪文のように。
そうすることがマリコを救い出す、ただ一つの術だと信じて。



どのくらい経っただろうか。
キィと軋む小さな音に、二人は顔を上げた。
音の鳴る方を見れば、風に吹かれ、揺り椅子が動いていた。

「「……………」」

淡い光が降り注ぎ、風に揺れる椅子は無人のはずなのに。

土門とマリコには、そこに腰掛け本を繰る祖父江教授の穏やかな姿が見えた…気がした。


「……そろそろ戻るか?」

「ええ。ええ。そうね」

マリコはぎゅっと日記を胸に抱きしめた。
自分の想いを今は亡きその人に届けるかのように。

マリコは日記を本棚に戻し、土門は窓を閉める。
コテージを出るその瞬間に、マリコは一度だけ振り返った。

「さようなら、樹さん」





「おかえりなさい」

玄関の前で颯が待っていた。

「祖父江さん、ありがとうございました」

マリコは静かに頭を下げる。
その隣で土門は颯に鍵を差し出した。

「お返しします」

土門から鍵を受け取った祖父江は、そのままマリコの手へと鍵を移動させた。

「これはあなたに差し上げます」

「え?」

「いつの日かまた、あの窓から見える桜が満開の頃、いらしてください」

「でも!」

「榊さん。私は来週日本を離れます。もう戻ってくることはないでしょう」

「祖父江さん?」

「私にはドイツに妻がいるんです。これからは残された短い時間を彼女とともに静かに過ごしたい」

マリコは目を見開いた。

「私も、樹と同じ病に冒されているのですよ」

「祖父江さん!」

「榊さん、あなたにお会いできて良かった。樹が寄越すメールには必ずあなたの名前があった。だからどうしても、一度お目にかかりたかった。これで日本に思い残すことはない。榊さん、樹はあなたがいずれ素晴らしい科学者になるだろうと予言していた」

颯はそこまで言うと、何故か目を閉じた。

「これからも、ずっと前を向いて。
己の信念を貫いて欲しい。
そして、どうか幸せに。
染色体XX!」

誰の言葉か?
颯か樹か?
双子の為せる不思議か?
およそ信じられないこの奇跡を、けれど今のマリコは信じたかった。

科学で立証できない事象が、人の心を救うことは確かにある。

それを分かったうえで、マリコは科学を信じている。
万能ではないからこそ、きっとマリコは科学に惹かれるのだ。
いつかこの謎を解き明かしたい、と。

マリコは手の中の鍵の重さを確かめると、ポケットにしまった。

「祖父江さん、ありがとうございます!」

「その言葉、あいつにも伝わったことでしょう」

そういって笑うその人は、紛れもなく祖父江颯だった。


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