not bad
それからというもの、キッカケとタイミングが掴めず、二人の気まずい関係はずるずると続いた。
仕事で最低限の会話を交わす以外は、電話もメールも屋上でのひとときさえもなくなった。
しかし今は、管轄を跨いで発生した連続通り魔事件解決の為、二人は寝る間も惜しんで捜査と鑑定を続けている。
何とかしなければ…と思いながらも、それぞれの仕事に忙殺されていた。
このような二人の様子にいち早く気づいたのは坤だ。
彼はマリコへの気持ちに気づいてからというもの、そのチャンスを虎視眈々と狙っていた。
今なら、いとこの健児の言葉がよく分かる。
『人使いは荒いし、言うことは聞かない、本当に自分勝手な人なんだ』
『そんな上司のどこがいいんだよ?』
『良くはないよ。でも、純粋で綺麗な人なんだ』
『美人、てことか?』
『あー、外見は確かに美人だよ。でもそれよりも、何ていうのかなぁ…。マリコさんの無理や無茶は“真実を知りたい”っていう純粋さと、“被害者やその家族のために”っていう優しさから来ているんだ。そういう心の綺麗な人ってこと。言ってる意味、分かる?』
『……何となく』
そのときの会話を、当時の坤はあまり深く気にしていなかった。
でも実際にマリコと会ってみると、惹かれずにはいられなかった。
これまで自分が付き合ってきた美人なだけの女達とは比較にならない。
彼女の外見と内面、そこから放たれるオーラーは別格だ。
高嶺の花?
孤高の存在?
坤は、竹取物語の主人公を思い出した。
なよ竹のかぐや姫を手に入れるために奔走した男たちは皆失敗した。
けれど自分はそうはならない。
絶対、手に入れる。
光り輝く、一節の竹を。
それから数日。
いよいよ通り魔の容疑者が絞られ、捜査も大詰めとなったところで、問題が発生した。
坤が鑑定ミスを犯したのだ。
それは一つ間違えれば、冤罪を生む可能性のある重大なものだった。
その日のうちに、所属長である日野。
坤本人。
そして、マリコも同席のうえ、藤倉からきつい叱責を受けた。
「榊さん、申し訳ありません!」
科捜研へ戻るなり、坤は深く体を曲げたまま、顔を上げようとはしない。
「坤さん、顔を上げてください」
「……………」
しばらく待っても、動く気配のない坤。
マリコは彼の白衣の袖口を引っ張ると、無言で歩き出した。
資料を手に一課を出た土門は、屋上へ向かう階段を登る人影に気づいた。
シルエットでマリコだと判断できたが、どうやら影は一つではない。
「……………」
一瞬の迷いの後、土門は少し距離をあけ、二人の後を追いかけた。
土門が細く開いた扉の隙間から目を凝らすと、屋上で向き合った二人は難しい顔をしていた。
「榊さん、すみませんでした。あの鑑定は俺が勝手に行ったものなのに……」
「理由はどうあれ、私は坤さんの指導員です。責任を取るのは私です」
捜査本部でも噂になっていた鑑定ミス。
どうやらあれは坤がやらかしたらしいと、聞き耳を立てていた土門もようやく理解する。
「それに、私たちの仕事には起きてしまったことを悔やんでいる時間はありません。こうしている間にも新たな被害者が出てしまうかもしれない…。今は『対処する』という藤倉部長の言葉を信じて、より慎重にかつ迅速に鑑定を進めることが、私たちの使命です」
――――― ああ、榊だ…。
土門はその清々しいほどの真っ直ぐさに、胸を打たれた。
ミスを犯した部下や新人は、得てして自己嫌悪という殻に閉じこもりがちだ。
大抵の上司は、宥めすかすか、激怒するか…。
それでも立ち直らない者は捨て置かれる。
だが、マリコはただ事実を述べていた。
責任の所在は自分にあること。
そして、今はそんなことよりもやらなければならない大切なことがあると、坤に淡々と告げる。
土門はマリコのこういう所を、高く評価している。
新人もベテランも関係ない。
忖度という言葉は、マリコの語彙にはないのかもしれないとさえ思う。
とかくそれらに流されやすい職種において、マリコのような存在は稀有であり、一種の清涼剤となるだろう。
もっとも、上司には頭の痛い清涼剤ではあろうが…。
今回もそれは功を奏したようだ。
坤は顔を上げ、しっかりとうなずいた。
「そうですね。榊さんの言うとおりだ。今は1分1秒無駄にはできないのに…」
坤の言葉にマリコは微笑んだ。
心底嬉しそうに。
「榊さん!」
その笑顔に、坤の何かが外れた。
これまで見たどんな笑顔より惹かれた。
美しかった。
温かかった。
「!?」
気づいたときには、マリコは抱きしめられていた。
あまりに突然のことで、動くことすらできない。
「榊さん、俺………」
坤は熱に浮かされたように、マリコへと顔を近づける。
マリコは瞬きもせず、それをスローモーションのように見つめていた。