恋路





サクッ、サクッ、と地面を踏みしめる音しか聞こえない。
気がつけば、早月の足はコース最後の行灯を通り過ぎていた。

「マリコさんたち、来ませんね…」

「そうね…」

「「…………………………」」

二人は立ち尽くし、沈黙が続く。
先に耐えかねたのは早月だ。

実は早月にはずっと宇佐見に聞きたいことがあった。
幸い、今は二人きりだ。
聞くなら今しかない。

「ねえ、宇佐見さん。マリコさんをデートに誘ったって本当?」

科捜研の若手から聞いた噂話。
まさかね、と早月は信じなかった。
でも……。



宇佐見は答えに詰まってしまった。
目の前の解剖医は、マリコと同じく真実を見抜く瞳を持っている。
たちまちに、彼女は正答を悟った。


「ふーん。本当なんだ………」

早月は足元に視線を落とした。
今日ぐらいは、エンジニアブーツじゃなくて、パンプスにすれば良かった…。
そんなことを、ぼんやりと考える。


「先生、誤解です!」

宇佐見は、思わず早月の腕を掴んだ。

「宇佐見さん、どうしたの?そんなにムキになって」

「あ、すみません……」

慌てて手を放す宇佐見。

早月はあまり目にすることのない彼の姿に、驚いた。

「あなたには、誤解されたくないんです」

宇佐見はそう言ってから、その理由を探した。
あの日…記憶が戻った日、科捜研へやって来た早月の声を聞いた時。
ずっと頭の中にかかっていた靄のようなものが、スッと晴れたのだ。
そして彼女の後ろ姿を視界に捕えると、これまでの記憶が早送りのように再生された。

これまでも仕事に真摯に打ち込む姿や、逆にみんなと和気あいあい、明るい笑顔を振りまく姿を見て素敵な女性だと思ってはいた。
きっと自分は彼女に好意を感じているのだろう。
それは自覚している。
けれど、若い頃のように惚れた腫れたといった浮足立った感情かと問われれば、素直にうなずくことが出来ない。
母親の介護のこと、失くした妹のこと、宇佐見を取り巻く環境は随分と変化したのだ。

色々理由を書き連ねたが、要するに。
宇佐見は、恋に臆病になっていた。
そしてそのことに、本人は気づいていない。
いや、敢て目をそらし、蓋をしていたのかもしれない。

ところが、記憶喪失になったことで、その蓋が壊れた。
溢れ出した想いは、早月とマリコを取り違えた。
あのときの宇佐見は、まるで思春期を迎えたばかりの少年のように、一番近くで自分を気遣う女性へとベクトルを向けてしまったのだ。
そしてその間違いに気づかせてくれたのは、土門という存在だ。
宇佐見はそのことに感謝しつつも、土門の大切な女性へ横恋慕したことに罪悪感を拭えずにいた。

そんな心の葛藤が、土門との間に溝を作り、ギクシャクした雰囲気だと早月に指摘されてしまったのだ。

だから。
今度こそ。

「あなたには誤解されたくないんです。そして、もう間違えたくない」

「宇佐見さん?」

「先生、聞いてください」

宇佐見は『少し長い話になりますが…』と、早月を伴い、また別の行灯のルートへ足を向ける。
並んで歩きながら、記憶喪失に陥った経緯から記憶が戻るまでの話を語った。

早月はただ黙って聞いていた。
宇佐見が怪我を負ったことはマリコから聞いていた。
しかし記憶喪失という症状にあったことは今初めて知ったのだ。

「風丘先生。もう少しゆっくりでもいいですか?」

「え?」

「進むスピードです」

「あ、ええ」

早月はうなずき、歩調を緩めた。
宇佐見は『ちがいます』と首を振ると立ち止まり、先を行く早月を見つめた。

「あなたとの距離を縮めていくスピードです」

「どういう意味?」

早月は足を止め、振り返る。

「私は長年患っていた臆病風邪のせいで、今はまだゆっくりとしか前に進めないんです。だから、そこで。その場所で、待っていてくれませんか?私が追いつくのを」

早月は思案した。
待っている…それだけでいいのだろうか?

ある日突然姿を消した夫。
待ち続けて、待ち続けて、やっと早月のもとに帰ってきたときには物言わぬ姿になっていた。

そんな想いは二度としたくない。
宇佐見同様、早月ももう間違えたくないのだ。

だから、早月は180度方向を変え進む。
そして宇佐見の目の前に立った。

「だったら、私が戻ればいいでしょ?」

早月は待たないことを選んだ。
けれど、その声は微かに震えている。

気丈な彼女の不安そうな声と表情。

ーーーーー 護りたい。

ただ純粋に、宇佐見はそう感じた。

「ありがとうございます。それならこれからは一緒に…歩いていけますね?

宇佐見は早月の手を包み込むように握ると、軽く引いた。

早月は宇佐見の胸元に引き寄せられる。
耳元で鼓動が聞こえた。
その速度が平常時よりも随分と早いことに、医師の早月はすぐに気づいた。
くすっと漏れた笑い。
それに気づかぬ宇佐見ではない。

「そういうことは気づかない振りをしてくださいね、早月さん?」

ポンと髪を撫でられ、突然呼ばれた名前に早月は赤くなる。

「そ、そっちこそ、不意打ち!」

「プッ。可愛い人ですね、早月さんは」

「……………!?」

『どこが臆病風邪なのよー!』
さしずめ、早月の心の叫びはこんなところだろうか。

歩き始めたばかりの二人は、見つめ合い、額を合わせ、頬に触れるだけが精一杯だ。
でもそれでいいと、二人ともに思っていた。
急がない。
遠回りしたっていい。
隣にアナタがいるのなら。



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