猫の日(in microscope)
吾輩は猫である。
名前はオパール。
『microscope』というbarに居候している。
今日は人間たちの世の中では『猫の日』なんて言うらしい。
店へ来る客が、おやつや玩具を差入れしてくれる。
はっきり言って。
……………迷惑である。
そもそも「ニャンニャンニャン」と鳴くから…というが、別に「ニャン」とばかり鳴くわけでもないし。
入れ代わり立ち代わり、見知らぬ人間に頭を撫でられるのも煩わしい。
吾輩は眠いのだ。
安眠妨害も甚だしい。
定位置であるカウンターの一席を占め、ふて寝(?)していたはずのオパールの目が開く。
七色に煌めくその瞳が捕らえたのは、たった今来店した二人…のうちの一人だ。
デート帰りなのだろう。
今夜は珍しく、彼女はスカートに踵の高いパンプスを履いていた。
「いらっしゃいませ」
オパールの主人、店のマスターが柔らかく笑んで二人を迎える。
「「こんばんは、マスター」」
彼女は連れの男性(オパールには永遠のライバル)にエスコートされ、カウンターに腰をおろした。
「榊さま。とてもお似合いですよ」
マリコは一瞬きょとんとした顔を見せるが、今日の出で立ちを褒められているのだと悟ると、少し頬を赤らめはにかむ。
「ご注文は何になさいますか?」
「土門さん、何でも好きなものを注文してちょうだい。今夜は私の奢りよ」
そのセリフに今度はマスターが目を丸くする。
珍しいこともあるものだ、と。
「バレンタインをすっぽかされたんですよ」
土門がマスターの謎に答えた。
「今日はその穴埋めだそうです」
「嫌だ!バラさないでよ」
可愛らしく睨むマリコに、土門は眉を上げて応酬する。
「なるほど、そうでしたか。それでは当店で一番高価なメニューをお作りしましょうか?」
「えっ……」
マリコは心配そうだが、マスターのいたずらっ子のような笑顔を見て、頷いた。
「では、お待ち下さい」
マスターがシェイカーを準備し始めたのを確認すると、オパールは体を伸ばし、立ち上がる。
そして軽い身のこなしで、マリコの膝に飛び乗った。
「ニャー」
「オパール、こんばんは。寝ているのかと思って声をかけなかったのよ。起きていたの?」
「ニャァ」
こういうところが、彼女はそこらへんの女とは違う。
オパールはマリコが大好きだ。
だから、必然的に土門のことは鬱陶しい。
背中を撫でるマリコの手の感触に満足して、オパールは再び微睡む。
だが、その頭上では何やら不穏な会話がなされていた。
「榊…」
「なあに?」
「明日なんだが……」
「ええ。有給取れたんでしょう?私も申請してきたわ。どこに行く?」
「あ、ああ……」
「土門さんはどこか行きたい場所はない?」
ここのところ立て続けに事件が起きていたため、今日は久しぶりに二人揃っての非番だった。
それが分かったとき、互いに翌日も有給を取り、二人で過ごそうと約束していたのだ。
「すまん!」
土門は突然、思い切り頭を下げた。
その声の大きさに驚いたオパールが目を開けると、ちょうど土門のそれとかち合う。
「土門さん?」
「実は明日、出張が入っちまったんだ」
「………………」
マリコは続く土門の言葉を待っている。
「本当は別の奴が行く予定だったんだが、急にお袋さんの具合が悪くなっちまったらしくてな……」
「それで代わってあげたの?」
「すまん」
「私との約束があったのに?」
たずねるマリコの声色は硬い。
「すまん、榊……………」
ふっ、と空気が和らぐ。
「冗談よ」
「榊?」
「仕方ないわ。急なことだし。今夜は早めに帰りましょう」
「………………」
反故にしたのは自分だが、土門はやはり後悔していた。
せっかくマリコと二人、ゆっくりと過ごせるはずの夜をみすみす逃す結果になったことを。
そんな土門の胸の内を知ってか、知らずか。
マリコは「それに…」と続けながら、そっと土門の肩に触れた。
「そんなときに、もし土門さんが私との約束を優先させるような人だったら……」
マリコは土門の肩に置いた手を支えに、身を乗り上げると、その耳元で囁いた。
聞こえたのは囁かれた当人と、ピンと三角耳を立てていたオパールだけだろう。
マリコは。
「好きになったりしないわ」
そういって、婉然と微笑んだ。
――――― やれやれ、聞いていられない。
オパールはマリコの膝上で身を起こす。
見れば、先ほどはまるで生気のなかった土門の瞳が、今は生き生きとしている。
マリコの膝は大好きだが、何とも居づらい雰囲気にオパールは自分の定位置へと戻った。
それを見計らったように、カクテルが二人の前に並んだ。
「お待たせいたしました。こちらが当店で一番高価な、自慢のカクテルです」
「でも、これは…?」
瓜二つのグラスの中身に、マリコは困惑する。
「本日は特別です。ただし…ご本人様以外へのご提供は、プライスレスになりますが」
マスターは鮮やかにウィンクをして見せる。
土門はくっと笑い、カクテルグラスを持ち上げた。
「こいつはいい。今夜はお預けだと思っていたが……、どうやらそうならずに済みそうだ」
そういって、ピンクのカクテルを飲み干す。
「うまいな」
その感想にマリコはただただ赤くなる。
「榊、同じものをもう一度、オーダーしてもいいか?」
「明日の朝は早いんでしょう?おかわりは、帰ってから…に、したら…どう、かしら………」
しどろもどろなマリコの髪を優しく漉いて、土門は頷く。
その一部始終を見つめていた七色の瞳も、今はどこか楽しげだ。
「もう一度」。
土門がそう所望したプライスレスなピンク・カクテル。
そのカクテル名は、『マリコ』。
fin.
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