檸檬爆弾
「陽斗さんの病状はどうなの?」
事件から5日後。
土門は久しぶりにマリコの部屋を訪れた。
ずっと残務処理に追われ、なかなか時間が取れなかったのだ。
しかし、土門にはマリコヘ返さなければならないものもあり、遅い時間だったが部屋のインターフォンを押した。
「一命は取り留めたが、意識が戻るかは分からんそうだ」
「そう………」
あの日、病室に仕掛けられた檸檬の爆弾に、梶雪斗はその命の時間を自ら終えた。
そしてその片割れである陽斗も服毒自殺をはかり、数日は死の淵を彷徨っていたのだ。
「これからどうなるの?」
「ん。調べてみたが、梶兄弟の両親はすでに他界していた。しかし、かなりの資産家だったそうだ。梶家の財産を管理している弁護士によれば、雪斗の入院費も遺産で賄っていたそうだ。今度のことで雪斗の遺産が陽斗に遺贈されるかは分からないが、陽斗の意識が回復するまで入院はできるようだ」
「陽斗さんまでこんなことになってしまうなんて。私が…。私が、最初の手紙に気づいてさえいれば……」
「榊、それは違う」
土門は俯くマリコに視線を合わせると、力強く否定の言葉を口にした。
「確かにきっかけではあったかもしれない。だが、こうなる道を選んだのは、あの二人だ。俺は、志津枝もあの兄弟も、やはり選ぶ道を間違えていると思う」
「そう、言い切ってしまっていいのかしら……」
今度の事件で、マリコの気持ちは揺れていた。
どんな理由であれ、犯罪を否定する心は変わらない。
けれど、自らの命を賭してまで成し遂げようとする行為を、簡単に否定してしまっていいのだろうか?
自分は神ではない。
是か非か、それを決めるなんて傲慢なのではないか…。
「お前の気持ちもわからんでもない。だが俺たち法の番人がそれを認めてしまえば、何が正義で何が悪か、その境界線があいまいになっちまう。そうなれば犯罪は減るどころか増えるばかりだろう」
「そう。そう…よね」
この命題に正しい答えは、きっとない。
これからも幾度となくぶつかり悩んでいくのだろう。
それでも、生きていかなければならない。
マリコも。
土門も。
「みんな…。みんな、どうしてそんなに簡単に命の使い道を決めるのかしら?一つしかないものなのに……」
「お前の言うとおりだな。たとえ時間がなかったとしても、もっと慎重に。周囲の人間のことも含めて、あらん限りの時間をかけて考えるべきだろう。その道のりこそが『人生』だと俺は思う」
「ええ」
今回の事件を経て、『1』という数字が土門の脳裏には植えついていた。
一人だけという孤独。
ただ一つの生きる目的。
手の中の一個の檸檬。
そして、たった一つの命…。
「榊。“一つ”だけ、質問してもいいか?」
「なあに?」
「今夜…このままここに居ても、いいか?」
時刻はすでに23時を過ぎている。
「当たり前でしょう?こんな時間に締め出したりしないわよ!」
そういうと、マリコは数日前まで土門の寝床だったソファをポンポンと叩く。
どうぞ、と言わんばかりに。
「いや、そうじゃなくてだな。事件も終わったことだし、今夜はお前と一緒に……」
「土門さん、質問は“一つ”じゃなかったかしら?」
「……………」
言質を取られ、土門は言葉に詰まる。
その様子を見て、マリコはフフッと軽やかに微笑んだ。
「ねっ。私からも“一つ”、いい?」
「ん?」
「土門さん、“今夜は”私の隣に居てくれる?」
マリコは土門の首にふわりと腕を回す。
額と額を合わせれば、もう視線を逸らすことはできない。
まるで時が止まったかのように、二人は見つめ合う。
土門は、マリコの煌めく瞳を愛おしいと思った。
マリコは、土門の澄んだ瞳を美しいと感じた。
そうして。
その4つの瞳が閉じたとき。
重なるのは、互いの唇。
呼吸を繰り返すたびに、浅く、深く。
何度も何度も重なり合う。
その温もりと感触は、生ある証。
求める高揚感と。
求められる多幸感に、二人は夜の静寂に沈んでいく。
「“今夜だけ”でなく、この先もずっと、お前と………」
――――― 命の使い道。
それは、これからゆっくりと時間をかけて探していけばいいのだ。
……………二人で。
「………だから、やっぱりこの鍵は返せない。いいか?」
囁かれた言葉にマリコは小さく頷くと、もうその瞳は伏せられた。
この穏やかな息づかいをずっと護りたい……。
腕の中の柔らかな身体を、一度だけ。
土門はそっと抱きしめ、自分も目を閉じる。
漆黒の瞼の裏に、一瞬浮かんだ黄色。
しかしそれが土門の記憶に残る前に、彼もまた…静かな寝息を立てていた。
fin.
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