檸檬爆弾
7階でエレベーターを降りると、男は一番奥の病室の前で立ち止まる。
そして、静かに扉を引いた。
滑らかに動く扉の向こうを目にした二人は、立ちすくむ。
白い箱。
それが第一印象だろうか。
一面白い壁に、白いチェスト、椅子、そしてベッド。
色彩の極端に少ない病室だった。
ただ一つ、窓辺に置かれた檸檬以外は。
「兄さん、マリコさんが来てくれたよ」
「兄さん?」
マリコの声に、天井のディスプレイが起動した。
『ようこそ、榊マリコさん』
ディスプレイには、まるでキータッチしているかのように一字一字打ち込まれていく。
「あなたが…………………?」
その様子にマリコは言葉を失う。
目の前の爆弾犯は、ベッドに横たわり、体中を数え切れないほどのチューブに繋がれていた。
もはや指一本ですら自分の意思で動かすことはできず、ただ目の動きだけが彼の世界を支えている。
視線が動くと、それに合わせて天井のディスプレイに文字が打ち出される。
彼は目の動きだけでしか、会話ができないのだ。
マリコはベッドサイドに進むと、彼に声をかけた。
「榊マリコです。あなたは?」
『僕は、
ディスプレイに答えが表示される。
「では、あなたは?」
マリコは自分を迎えに来た男にたずねた。
「僕は梶
「お前たち、双子の兄弟なのか……」
土門も驚いているようだ。
「雪斗さんは、ずっとここに?」
マリコは雪斗の顔とディスプレイを交互に見ながら、会話を進める。
『はい。3年前、脳に腫瘍が見つかりました。でも残念ながら手術のできる場所ではないと、多くの医者が匙を投げました。それからは徐々に肥大化する腫瘍に脳が圧迫され、今ではこんな状態に。もうすぐ命の火が消えるのを、僕はここで待っているんです』
「そんな……」
マリコは何といえばいいのかわからなかった。
下手な慰めなど却って失礼だろう。
「おい。2件の爆発事件は、お前の仕業か?」
土門は相手の境遇に流されることなく、尋問を開始する。
しかし。
『あなたの質問には黙秘する。僕は榊さんと話がしたい』
それきり、ディスプレイは沈黙した。
ちっと舌うつと、土門はマリコへ視線を投げた。
「それなら私が聞くわ。2件の爆発は雪斗さんの仕業かしら?」
『そう。僕が設計した爆弾を陽斗が作って。僕が計画した時間と場所に陽斗が置きに行ったんです』
「なぜ?動機はなに?」
『手紙に書いてあったでしょう?僕はあなたに会いたかった』
「そうだわ。最初の手紙には、私宛に以前手紙を送ったとあったけれど……」
『そうですよ。でもあなたからは何のリアクションもなかった。だけどよく考えれば当たり前ですよね。見ず知らずの人間から届いた手紙なんて、返事どころか読むことさえ戸惑うでしょう』
「いいえ、そういう訳ではないの。何かの手違いか…私のもとには届いていないの。だから返事をしたくても出来なかったんです」
『……………』
雪斗は半信半疑のようだ。
「本当よ」
『それはもういいです。今こうして榊さんと会って話ができているんですからね』
「でも…本当にそれだけが動機なの?」
『なぜそう思うんですか?』
「私に会うことが目的なら、何も爆弾事件なんて大げさなことをしなくてもいいでしょう?あなた達が作った爆弾を鑑定した仲間が言っていました。とても精密に計算されて、丁寧に作られた爆弾だと」
『僕も、陽斗も工学部を目指してたから、爆弾の知識も多少はありました。それに誰かを巻き込むことは絶対にしないと決めていたから、火薬の量や仕掛ける場所はちゃんと考えたんです』
「だが、万一ということだってある。お前たちがしたことは立派な犯罪だ」
『そんなことはわかっています。だから今日、榊さんにすべてを告白するつもりでお呼びしたんです。爆弾犯は僕です。それは認めます。でも陽斗は僕に命令されただけです。どうか陽斗の罪は酌量してください』
「何を言う。それを決めるのは法だ。お前じゃない」
「残念だけれど、約束はできないわ」
土門もマリコも、雪斗の願いを聞き入れる訳にはいかなかった。
誰でも法の下では平等でなくてはならない。
『陽斗は…。陽斗は僕が生きるために協力してくれた。陽斗が居なければ、僕はとっくに死んでいた。心臓は動いていても、きっと心は死んでいた。榊さん。僕はこの数日、数年ぶりに生きていると実感じた。あなたに会うという目標ができたからだ!』
――――― 生きる目的を得ること。
それが真の動機だろう。
土門とマリコは納得した。
『そして陽斗は、そんな僕を手伝っただけだ。それなのに……』
「雪斗さん?」
『もうすぐ僕の時間は止まる。だったら、残りの時間を僕は…弟を守るために使う!』
そう文字が表示されたかと思うと、ディスプレイにタイマーが現れた。
『陽斗の罪を軽くすると約束してください。さもなくば、この病院に仕掛けた爆弾を爆発させます!』
「雪斗さん!」
「馬鹿な真似はよせ!」
『馬鹿な真似?それができるのは、生きているからだ!』
“生きているから”
たったその7文字の重さに、土門はぐっと言葉を詰まらせた。
『この先も生き続けられるから、そんなことが言えるんだ。馬鹿な真似なんかじゃない!僕は本気だ!!』
「陽斗さん、あなたはいいの?お兄さんの残りの時間をこんな風に使ってしまって」
「……………」
迷いに視線の泳ぐ陽斗へ、マリコは諭すように話しかける。
「少し前に、自分の命を賭して復讐を遂げようとした女性がいたわ」
土門は安在志津枝のことを思い出した。
「でもその結果は誰も幸せにはならなかったし、それどころか新しい不幸を生み出してしまった……」
マリコは陽斗をじっと見つめる。
その瞳は。
“あなたは、お兄さんにそんなことをさせていいの?”
そう問い掛けているようだ。
『いいんだ、陽斗』
陽斗の迷いを察した雪斗が、弟を引き戻す。
双子なのだ。
片割れの心の機微は、誰よりも分かる。
『たとえ逮捕されても、僕は収監されないし、裁判にも出廷できない。結局はここで、この真っ白い部屋で時間を待つだけなんだ。だから、陽斗。僕の命の使い道は、僕に決めさせてくれ』
「…兄さん」
『榊さん、約束してください!』
「それは……」
「それは、できない。それが社会の、法のルールだ」
法の番人としての土門の言葉は正しく、そして重い。
『……だったら、見ているがいい。自分が人を殺す瞬間を。陽斗、ありがとう。こんな兄でごめん……』
雪斗の瞳が大きく瞬きした。
ディスプレイに、“Lemon”という文字が表示された途端、タイマーのカウントは一気に0になった。
同時に、周囲の機器からけたたましい警告音が鳴り出した。
「まさか、あなた!」
マリコは慌てて雪斗のベッドサイドのボタンを押す。
けれど、ナースコールには繋がらない。
檸檬が起爆装置。
爆発すれば、確実に人が死ぬ。
それはこういう意味だったのだ。
“Lemon”というワードが入力されたら、雪斗の体に繋がる生命維持装置をシャットダウンするように、雪斗自身がプログラムを変更していたに違いない。
「土門さん!すぐに先生を!」
土門はすぐさま身を翻す。
しかし。
「行かせない!」
陽斗がその身を呈して、土門を止める。
「どけ!」
「嫌だ!これが兄さんの最期の願いだ。邪魔はさせな…うっ!」
ゴホッという嫌な音とともに、床に鮮血が飛び散る。
「お前、まさか!?」
「ひとり…残って、なんに、な、る……………」
ズルズルと崩れ落ちる体を、土門は支えた。
「おい!しっかりしろ!!……榊!!!」
「土門さん、彼は私が!だから先生を!」
土門は今度こそ走りだす。
しかし無情にも、唯一稼働を続けているバイタルモニターは一本の直線を描いたまま、無機質な音を奏でるばかりだった。