マリコと有雨子





「良かったわね、宗也くんが無事で……」

マリコは屋上から遥か遠く、続く空を見つめる。
澄んだ空は抜けるように蒼く、吸い込まれそうだ。
しかし反対にマリコの気持ちは濁り、沈んでいた。

原因は、瑠美……いや、もう自分を誤魔化すことはできない。
マリコは有雨子という大きな存在に、押し潰されそうになっていた。


もういない人なのに……。
まだ土門さんの心を独占している……。
これまでも……ひょっとすると、これからも?

もしそうなら……………私はどうすればいいの?


迷い悩むマリコの瞳は輝きを失っていた。
万物の起源さえ見極めようと常に生き生きと煌めいていた瞳が、だ。

それは、どういう意味を持つのか?

何よりも科学を崇拝するはずのマリコにとって、それよりも大切なものが存在するということだろう。


「そうだな。怪我もなく無事で良かった」

「奥さん、泣いていた?」

「ああ…。宗也くんを抱き締めたまま、泣いていた」

「今回は……助けられて、ほっとした?」

「どういう意味だ?」

「いくら私だって、気づくわよ。あの奥さんと有雨子さんが似ているってこと……」

「……榊」

「私は、土門さんがずっと“罪悪感?”みたいなものを引きずっていたんじゃないかと思っていたの」

「誰に?」

「え?……有雨子さんに」

「……………」

土門は違う意味でほっとした。
土門が持つ罪悪感は、マリコに対するものだったからだ。


いつまでも亡き妻を想っている、男。
今は自分マリコという存在があるのに……。


そんな風にマリコが感じているのではないかと、土門は考えていたのだ。

今となっては、土門にとって有雨子は苦い思い出だ。
ただ、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。

では、マリコは?
……………わからない。

それでも、一つだけ言えるのは。
誰よりも幸せにしたい人だ。
幸せになってほしい、ではなく。
自分の手で幸せにしたい。

では、幸せとは何だろう?
いつも笑顔でいることか?
悲しいときに支えあい、ともに乗り越えることか?

多分、違う。
土門にとって幸せとは、生きることだ。
生きて傍らに在ること。
同じ時を刻み、鼓動を感じながら歳を経ていく。

その幸せを。
……マリコとともに。

土門はいつしか、残された人生をマリコと歩むという青写真を、自身の中で描き始めていた。




「罪悪感なんてないさ」

土門は空を見上げる。

「そう、なの?」

「ああ。俺にとって有雨子とのことは過去の出来事だ。たとえ思い出したとしても、幾らかの苦味が残るだけだ」

「……………」

「どうしてだか分かるか?」

「……………」

「俺の目はもう未来を見ているからだ。そして、そうさせてくれたのは、榊。お前だ」

「わ、た、し?」

「そうだ。お前と出会って、お前と触れあって、俺は幸せになりたいと思った。お前の傍で、お前とともに……」


土門は視線をマリコへと戻す。

「お前はどうだ?」

「私、私は……」

「有雨子に似ている彼女に嫉妬したか?」

「嫉妬ではないわ。でも心は……揺れた」

「だとしたら、それは俺のせいだな」

土門はマリコを抱き寄せた。

「不安にならないでくれ、榊。俺の目が見通す先にいるのはお前だけだ」

「土門さん……」

「どうしたら信じてくれる?」

「信じてるわ」

「だったら、どうすれば心の揺れは収まる?こうして抱きしめればいいのか?」

「私にも分からないわよ。でも、そうね…何か、証し、みたいなものが欲しいのかもしれないわ」

その一言に、土門は気づいた。
自分と同じ青写真を、もしかしたらマリコも描き始めているのかもしれないと。

永い間硬い殻の中で眠っていた種子は、漸く目覚め、小さな芽を伸ばそうともがいている。

「証し……か」

土門は抱きしめていた腕をほどき、マリコの両肩に乗せると、そのままマリコを見つめた。

「榊。俺は残された人生全ての時間を、お前と共に生きていきたい」

「土門さん……」

「いいか?」

「そんな、急に言われても……」

「駄目か?俺とでは嫌か?」

「嫌じゃないわ!?」

思わず大きな声を出してしまい、マリコは慌てて声を潜める。
屋上ここには二人しかいないというのに。

「だったら……約束してくれ」

「約束?」

「そうだ。俺かお前、どちらかが先に逝くまで……」

その続きは囁くような小さな声だった。


「傍にいてくれ、榊」


柄にもなく震える声に、土門は目を閉じ、自嘲した。
きっとマリコも呆れているだろう。

だが。

――――― ふわり。

「!?」

胸の中に飛び込んできたのは小さな身体。
けれど、土門には何よりも大きな存在。

「追い出されても、出ていかないわよ?私」

「望むところだ!」

「そう?それなら……」

今度はマリコが囁く。

「傍に……。土門さんの傍にいさせて、私だけを」




土門とマリコは、誓いの口づけを交わす。
見つめあい、厳かに。

「二人だけの結婚式みたいね」

「いや、ちゃんと証人がいるさ」

土門は指さす。

「ほら!」


見上げた先には、確かに存在していた。

それは。

どこまでも果てなく続く、“Something Blue”……青い証人。




fin.




5/5ページ
スキ