マリコと有雨子





土門は瑠美が現れたことに、動揺していた。
慌ててお盆を受けとり、この場から立ち去るように促す。
チラリと視線を動かせば、マリコはこちらを見ていた。
しかし表情の消えた顔からは、何もうかがい知ることはできなかった。



その後、しばらく緊張感に包まれていた現場の空気を切り裂いたのは、主の声だった。

「会社へ電話があったそうだ!」

「会社へ!?」

「そうだ!犯人の奴、なんてことをしてくれたんだ!!お陰で何人かの社員にも事件のことを知られてしまった。このままでは顧客に知られるのも時間の問題だ。わが社の信用に……」

「そんなことより、犯人はなんと?」

土門は話を遮った。
今はこんなろくでなしの愚痴に耳を貸しているヒマはないのだ。

「ちっ!身代金を指定した口座に振り込めと言ってきた」

「どこの銀行ですか!」

「マレーシアの銀行だ」

「マレーシア!?すぐに外務省に連絡して……」

「もう送金した」

「はっ!?」

「金は払った。1億の送金で宗也が戻ってくるなら安いものだ。警察のまどろっこしい捜査に付き合うのは、うんざりだ!」

「あんた!」

土門の手が崇伸の襟に伸びる。

「「土門さん!!」」

蒲原とマリコが慌てて土門を止めに入る。

そのとき。

「止めてください!」

悲鳴のような叫び声は瑠美のものだ。

「止めてください。今は宗也の無事が第一です!」

しん、とその場が沈黙に支配される。


「刑事さん、主人が勝手なことをして申し訳ありません」

「お、い!おまえ……」

「あなた!」

夫の声を遮り、瑠美はきっと厳しい表情を向ける。

「お金を払っても宗也が無事に戻ってくるとは限らないじゃないですか!どうして勝手なことをするんですか!」

「うるさい!俺に指図するな!」

「いいえ、します!ほかのことならいざ知らず、宗也は私がお腹を痛めて生んだ子です。万一あの子に何かあったら……」

「な、なんだ!俺に復讐でもするか!?」

「……私も生きてはいません。あの子のいない世界なんて生きていても意味がないわ」

凛とした声は部屋の隅々にまで届いた。

さすがの崇伸も黙ってしまった。




「奥さん」

2度目の沈黙を最初に破ったのは、マリコだった。

「はい」

「宗也くんが今日着ていた服の詳しい色や形を教えてください」

「え?は、はい……」

「どういうことだ、榊?」

土門は訝しげにマリコを問いただす。

「この誘拐犯は二つのグループに別れて行動しているんじゃないかしら?」

「?」

「恐らく会社へ送金を指示してきた方が、中心グループだわ。そしてはじめに宗也くんを誘拐したと家に電話してきた方が実行グループ。実行グループは金で雇われたような捨て駒なんじゃないかしら?」

「なぜそう思う?」

「だって、ボイスチェンジャーも使ってなかったんでしょう?おまけに宗也くんのスマホを使って電話を掛けてきたのなら、位置情報も筒抜けよ?杜撰すぎると思わない?」

「しかし、位置情報に関しては移動してしまえば意味がないだろう?」

「もちろんその可能性は否定できないわ。でも小さな子を連れてあちこち移動するのは目撃されるリスクが高い。スマホの電波が受信されたエリアの防犯カメラ映像のチェック……してみる価値はあると思わない?」

上目使いのマリコに、土門はドキリと鼓動が速まる。
しかし、そんな素振りは見せず……。

「いいだろう。すぐに用意させる」

そう答え、蒲原を呼ぶ。

「おねがいね。奥さん、それと宗也くんが歩いている姿の写った動画があれば、そのデータも提供してください」

「歩様認証ですね?」

宇佐見は二人の会話を聞き、すでにPCの準備を始めている。

「ええ。さあ、みんな。始めるわよ!」




この場にいるマリコ、宇佐見、呂太だけでなく、科捜研でも日野所長と亜美が映像の解析に取りかかっている。

結局、送金後数時たっても犯人側から連絡はなく、宗也も戻ってきてはいない。

瑠美は少し離れたリビングのテーブルに腰掛け、じっとスマホを見つめている。

「遠足ですか?」

「え?……ええ」

土門が瑠美の手元を覗くと、動物園だろうか…体操服姿の宗也がカンガルーの檻の前で手を振る姿がスマホに映しだされていた。

「息子は動物園が好きで、家族でもよく出かけていたんですが…。この時はお友だちと一緒に園内をまわったり、お弁当を食べたり、本当に楽しかったようでした」

その言葉を裏付けるように、宗也は弾けんばかりに笑っている。

「また友達と連れて行ってあげてください」

「……………」

「これから、そんなチャンスは何度でもあるはずですよ!」

瑠美は土門の言葉の真意を痛いほど感じた。
その気持ちが何よりも嬉しく、沈みきった心にさざ波がたつ。

「……ありがとうございます」

声を詰まらせた瑠美の瞳にはうっすらと涙の膜が張っていた。

土門は思わず、その肩に触れた。
ただ、慰めたい…そう思っての行動だった。

だが……。

その様子をマリコは目撃していた。
親密な様子はもちろんだが、それ以上に土門が自分以外の女性に触れることに、マリコは嫌悪感を覚えた。

正確に言えば、有雨子によく似た瑠美に触れることが、だ。

捜査中にこんな感情に振り回される自分を、マリコは情けなく感じた。
さらには、そう仕向けた土門にも……。

マリコは、自分の気持ちをもて余してしまっていた。



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