マリコと有雨子





京都府警へある一報がもたらされたのは、今から2時間前。
それは『息子が拐われた』という誘拐事件の発生を知らせるものであった。
所轄からの要請を受け、土門と蒲原は水道業者に扮し、急ぎ通報者宅へと向かった。

インターフォンを鳴らせば、「はい」と覇気のない声が応えた。

「京都府警の者です…『水道の修理に伺いました!』」

最初は小声で、あとは周囲に響くように土門は名乗った。

「どうぞ」

開かれた扉の内側へ、二人は素早く移動し身を隠す。

だがそこで、土門は立ち尽くしてしまった。

「有雨子……?」

「?」

思わず漏れた言葉に、女は首を傾げた。

「土門さん?」

蒲原に名前を呼ばれ、はっと土門は我に返る。

「こちらの奥さんですか?」

「はい、宗也そうやの母で瑠美るみと申します」



楡木にれぎ宗也、7歳。
それが今回、誘拐された子どもだ。
楡木家は代々続く歯科医の家系で、地元でも有数の名家だ。
政財界へも広い人脈を持ち、最近では豊富な資金を元手に様々な事業へも進出している。
そんな楡木家の長男ともなれば、身代金の金額が破格になることは想像に固くない。
実際、数時間前の犯人からの脅迫電話では1億円を要求されている。

「奥さん、宗也くんの写真かデータをお借りできますか?」

「はい。……こちらで、いいでしょうか?」

渡されたスマホの画面にはペットの犬を抱き、笑顔を向ける少年が写し出されていた。

「ありがとうございます……」

目の辺りや全体の雰囲気が母親とよく似ている。
土門は少年の画像を凝視する。
もし自分たちに子どもがいたら…、そんな思いが一瞬頭を過る。

『しっかりしろ!』

土門は自分を戒める。
目の前の女性は有雨子ではない。
一人息子を拐われた被害者なのだ。
そして自分は刑事だ。
今は少年を一刻も早く救い出すことが使命だ。



「なぜ、警察に知らせた!馬鹿者!!」

轟く怒号はこの家の主で、瑠美の夫。
楡木家8代目の楡木崇伸たかのぶだ。

「すみません、あなた。でも……」

瑠美は怯えた様子で、主人へ謝罪する。

「余計なことはするな!穀潰しがっ!」

手こそあげないものの、明らかな言葉の暴力。
DVだ。

土門は崇伸の前に進み出た。

「ご主人。今はできるだけ多くの情報を入手し、内密に動ける人間がいたほうがいいとは思いませんか?宗也くんの救出のために」

「ふんっ!警察は口ばかりだ」

「身代金を払っても宗也くんが無事に帰るとは限りませんよ?」

「…………宗也は、大切な跡取りだ。何としても助け出せ!」

捨てセリフを吐くと、崇伸は忌々しげに捜査員が詰める部屋を出ていった。

瑠美は顔面蒼白で、カタカタと震えている。

「大丈夫ですか?」

土門が声をかけると、瑠美は弱々しく頷いた。

「はい。すみません、みっともない所をお見せして……」

そういって何度も何度も頭を下げる。
恐らくこれまでもそうして、暴君の夫の仕打ちに耐えていたのだろう。

土門は居たたまれなくなった。

「少し休んだほうがいい。寝室はあちらですか?」

瑠美の腕を掴み、支える。
そして瑠美をエスコートするように歩き出した。
瑠美は顔を伏せたま「ありがとうございます」と言うと、寝室の扉の奥へと消えた。


「蒲原!すぐに準備だ。逆探を急げ!!」

「はい!科捜研に応援を頼みますか?」

「……………」

土門は逡巡した。
瑠美を見たら、マリコは……。

「土門さん?」

「……そうだな。すぐに呼んでくれ」

「了解です!」

マリコに有雨子の話をしたのは、あの事件のときだけだ。
もう忘れているだろう。
そう、土門は結論づけた。


果たして。

……………本当にそうだろうか?



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