『父になる』ということ。『母になる』ということ。
マリコはすぐにICUへ搬送された。
連絡を受けた早月も、講義を中断して駆けつけた。
早月は事故の経緯を聞くと、すぐに担当医師へ詰め寄った。
「マリコさんの容態は?胎児は!?」
「お、落ち着いてください。風丘先生」
胸ぐらを掴む勢いの早月に、医師が青ざめる。
「榊さんはショックで失神しているだけだと思います。運よく背負っていたディパックがクッションになったようです。頭も打っていませんし、もう暫くすれば意識も戻るでしょう」
早月はつい最近『いつでも両手が使えるように、って母が送ってきたんです…』と言いながら、マリコが見せてくれた黒いディパックを思い出した。
「そう。良かった」
早月はひとまず、安堵した。
「でもそれなら……なんでICUに?」
「それが……」
「もしかして、胎児の方?」
「はい。胎盤の損傷もなさそうですし、破水もしていません。でも、心音が非常に微弱なんです。多少は衝撃を受けているでしょうし、何かしら母体の影響が及んでいるのかもしれません」
「それじゃあ……」
「ここから先は母体と胎児本人の回復力次第でしょう」
「そんな……」
「風丘先生」
静かな声が早月を呼んだ。
早月は振り返る。
誰よりも叫び出したいはずのその人は、ここにいる誰よりも静かに佇んでいた。
それが却って早月には、無理矢理封じ込めた激しい怒りのように感じられた。
「土門さん!今の話、聞いて……?」
土門は早月の脇をすり抜ける。
そして。
「先生。どうか妻と子どもをお願いします」
担当医師へ深く頭を下げた。
「全力を尽くします!」
医師もそれしか答える言葉は見つからない。
それでも、皆が一つの体に宿る二つの命を救いたい…そう強く願っていた。
「あの……」
医師を見送った土門と早月の背後から、遠慮がちな声がかかった。
「あの、先ほど運ばれた妊婦さんの容態は?大丈夫なんでしょうか……?」
不安げな女性は、左手に小さな男の子の手を引いていた。
早月はすぐにピンときた。
マリコが庇ったのはこの子どもだろう。
「あ……」
早月が口を開くより前に、土門は膝を折り男の子に向かいあった。
「坊主。勝手にお母さんから離れたらダメだぞ。お母さんが心配する。男ならお母さんに心配かけるな。分かるか?」
ここまでさんざん母親に注意されていたのだろう。
男の子はコクコクと何度も首を縦に振る。
「よし、分かればいい」
土門が男の子の肩をポンと叩くと、その子ははにかんだような笑顔を見せた。
「あ、あの……」
「可愛いですね……」
「え……?」
土門の言葉の意図が母親には分からない。
「自分もこんな笑顔が見たいです…。見られるように祈っていてください」
そう言い残し、土門はICUの中に消えた。
早月はぐっと歯を食い縛り、母親に教えた。
「ご主人なんですよ。あの妊婦さんの……」
「……!?」
「刑事さんなんです。ついでに奥さんも警察関係の人です。彼女だから、息子さんは助かった。彼だから、あなたたちを責めなかったんです。本当は私、あなたに一言言ってやろうと思ってた。でもあの二人の気持ちを無駄にしたくないから、何も言いません。ただ…今日のこと、絶対に忘れないでください」
母親は呆然と早月の言葉を聞いていた。
涙ぐみながら、「はい」とうなだれる。
そしてICUへ向けて深く一礼すると、息子の手を引き立ち去った。