鹿と馬につける薬
一方、マリコは目隊員とともにイタリアンレストランにいた。
目隊員はこの日のために、雑誌やネットを漁り、大人の女性が好むレストランを調べて予約しておいたのだ。
二人きりの食事。
目の前にはマリコがいて、フォークが料理を運ぶ度に動くその唇に、目隊員は目を奪われる。
舞い上がった目隊員は、気がつけばほろ酔い程度に泥酔していた。
ドルチェで締めくくり、二人はレストランを出た。
「目さん、ご馳走さまでした。いいんですか?とても高級そうなお店でしたけど……」
年下の目隊員に支払わせてしまったことを、マリコは申し訳なく感じた。
「ははは。そう何度もできませんからね。初めてのデートぐらい見栄を張らせてください」
「デート…って」
目隊員はややふらつきながらも、マリコと向かい合った。
「榊さん、自分と……」
「あっ!?」
マリコは目隊員を押しのけ、道路の反対側に目を凝らす。
「榊さん?」
「目さん!あそこ!」
マリコの指さす先で、フリント摩擦のような火花が数回散った。
「ライター!?放火かっ!!」
目隊員は酔いを吹き飛ばすように大きく頭をふると、走り出した。
もちろん、マリコもそれに続く。
「おい!そこで何してる!!」
目隊員が大声で呼びかけると、黒い塊が動いた。
暗闇に目が慣れてくると、そこにいたのは眼鏡をかけた若い男だった。
バックパックを背負い、透明な液体の入ったペットボトルとタオルを手にしている。
「バカな真似は止めろ。いたずらのつもりでも、火をつけたら最後、どうなるかわからないんだぞ!」
「う、うるさい!」
男はペットボトルを目隊員に投げつけた。
蓋の空いていたペットボトルから液体が流れ出し、目隊員の左腕を濡らした。
鼻につく、独特な臭い……………灯油だ。
「ふん。ちょうどいい。お前が着火剤だ。へへ…イヒヒ」
クスリでも使っているのか、ニタリと笑う男の目は虚ろだ。
ポケットからライターを取り出し、持っていたタオルに火をつけた。
そして、視点の合わない目で二人に近づいてくる。
「くそっ、榊さん逃げてください。そして、誰か…応援を!」
しかし、マリコはここで“うん”と大人しく頷くような女ではなかった。
マリコは男に向かってスマホを見せる。
「今、警察へ電話をしたわ。すぐに刑事がやってくるわよ!」
もちろんハッタリだが、時間を稼いで、マリコは何とか男の持つ火を消そうと知恵を絞る。
「いいの?そんな火のついたモノを持っていたら、すぐにあなたが放火犯だってバレるわよ?」
そのとき、男が「ひぃ!」と情けない悲鳴を上げた。
タオルの火が男の手にまで到達したのだ。
肉の焦げる嫌な臭いがする。
男は慌ててタオルをふるい捨てた。
足で何度も踏みつぶすと、火種は消え、黒い残骸だけが残った。
これで燃え移る心配が消えた、と目隊員は男に事情を聴くべく近づいた。
ところが。
――――― シュッ!
男は、今度はバックパックからサバイバルナイフを取り出すと、目隊員めがけて降り下ろした。
「つぅ……!」
「目さんっ!?」
寸でのところで身を躱した目隊員だったが、肩口の辺りをざっくりとやられた。
「ち、近寄るなぁ!お前たちのせいだ。お前たちの…。ゆるさないぞお!」
男はなりふり構わずナイフを振り回し、マリコへ迫ってくる。
「榊さん!逃げてください!!」