鹿と馬につける薬
翌日。
マリコは捜査一課へ向かう廊下を歩いていた。
昨夜の土門の様子が気になったマリコは、帰宅後に土門のスマホへ電話をかけたのだが、繋がることは無かった。
寝る前に送ったメッセージも…既読のつかぬまま、朝を迎えた。
一課の室内をのぞけば、自分のデスクに土門はいた。
「土門さん!」
マリコは廊下から、土門に呼びかける。
その声に気づいた土門は、マリコのもとへやって来た。
「なんだ?」
「あの、これ。報告書」
「ああ、わざわざすまんな」
ファイルを受け取ると、土門はそのまま戻ろうとする。
「ま、待って!」
「まだ何かあるのか?」
「昨日…電話したんだけど?」
「すまん、気づかなかったようだ」
「ラインも送ったわ」
「……後で確認しておく」
「土門さん!」
「榊、残りの鑑定も急いでくれ」
取り付く島もなく、土門はマリコに背を向けた。
一人残されたマリコは、じっと土門の背中を見つめることしかできなかった。
土門とマリコ、そして目隊員を巻き込んだ放火殺人事件は、一本の電話によって予想外の展開を見せた。
藤倉の元へかかってきたその電話は、東京へ出張中の佐伯本部長からであった。
昨夜、別の管轄の署に窃盗犯として現行犯逮捕された男が、これまでの余罪を洗いざらい告白したのだ。
そして、その中の一件が三人の関わる事件だった。
窃盗目的で忍び込んだ住宅で家主と鉢合わせ、とっさに護身用として所持していたナイフで家主を刺したのだという。
当然、このままではまずいと思い、家もろとも灰にすることで殺人を隠そうとしたらしい。
本人の自供をもとに裏付け捜査が行われ、男は追起訴された。
事件が無事解決しても、マリコの気分は沈んだままだ。
ここ数日、土門とはほとんど顔を合わせてはいない。
屋上で会うことも、電話で話すこともない。
何が原因なのかしら…。
マリコには思い当たる節がまるでなかった。
それでも、土門に避けられていることはマリコにも分かっていた。
何も、話してもらえない……。
顕微鏡をのぞくマリコの視界は徐々に歪んでいく。
土門“刑事”ではなく。
土門“さん”に会えない。
土門“さん”の声が聞けない。
土門“さん”に触れられない…。
それがこんなにも辛く、悲しいことなのかと、マリコは土門の存在の大きさを改めて感じた。
「土門さん…。逢いたい………」
ーーーーー ポタリ。
未使用のプレパラートに落ちたのは、悲しみの感情を含んだ甘い涙だった。