鹿と馬につける薬





「土門さん!」

振り返ると、蒲原がこちらへ走って来るところだった。

「どうした蒲原?」

「はい、あの…あれ?あなた……」

目隊員に気づいた蒲原が目を瞠る。
しかし、ここが火災現場であることを思い出した。
蒲原はそれ以上言及せず、土門への報告を優先させた。

「16時から捜査会議を開くそうです。科捜研も出席をお願いします」

マリコがうなずく。

「それから火災調査官の方にも出席してもらいたいんですが…」

蒲原は目隊員を見る。

「あ、それは自分です。了解しました」

土門は腕時計を確認する。

「ここは所轄と鑑識に任せて、俺たちは一度府警へ戻ろう。目さん、あなたはどうします?」

「自分もこのまま府警へ行きます。隊長が先に府警で待っているはずなので」

「わかりました。よし、戻るぞ」

蒲原が頷く。

「宇佐見さん、後はお願いします」

マリコは鑑定道具一式を宇佐見に渡す。

「わかりました」

「あの、榊さんも府警に戻られるんですよね?」

「あ、私は……ええ、まあ」

一瞬言い淀んだマリコだったが、戻ることに間違いはないので、曖昧にうなずいた。

「だったら、榊さん。消防車で送りましょうか?乗ってみたくないですか?」

目隊員は、「いいことを思いついた!」とばかりにマリコを誘う。
土門は無言でマリコの反応を見守った。

「とても興味はあるけれど、またにします。ごめんなさい」

「あ……いいえ」

予想外の返事だったのだろう。
目隊員は驚いていた。

「榊、行くぞ」

「ええ」

マリコは歩きだした土門の背中を追った。




「興味があるなら、乗ればいいのに……」

ボソッと漏れた本音に蒲原が反応した。

「マリコさんは、まっすぐ府警に戻るわけじゃないですよ」

「え?」

「今から洛北医大で被害者の解剖に立ち会うんです」

「土門さんもですか?」

「土門さんはマリコさんを送り届けた後で、聞き込みへ回り、捜査会議に出席するはずです。それが二人の“決まりごと”なんですよ」

「……………」

目隊員は無言で、遠ざかる二人の背中を見つめた。





診療時間内だからか、洛北医大病院の駐車場は満車だった。
仕方なく、土門は近くの脇道に車を停車させた。

「ここでいいか?」

「ええ、ありがとう。なるべく早く報告書を届け……土門さん?」

シートベルトにかけた手が、土門に握られる。

「また暫くお前の部屋には寄れないな……」

「仕方ないわね」

にべもない返事に、土門は寂しげに笑って見せる。

「後は頼んだぞ」

マリコから離れていく手を、今度はマリコ自身が捕まえた。

「みんな…」

「榊?」

「みんな、私は仕事しか頭にない、空気の読めない女だと思っているみたいだけど……」

マリコの声と息が徐々に土門へと近づいてくる。

「我慢しているのは、土門さんだけじゃないのよ?」

「さ、かき…?」

「私だって、寂しいわ……。覚えておいて。忘れたら、許さない」

そう伝える唇が、土門の頬を掠め去っていく。

開いた助手席のドアから、振り返ることなくマリコは車を降りた。
『らしくないことをした…』、きっとそう赤い顔には書いてあるに違いない。

忘れるわけがない。
忘れられるはずがない。

土門はマリコの姿が建物の中に消えるのを確認すると、ギアを入れ、アクセルを踏んだ。




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