アムール虎の涙
それからというもの、マリコは山のような証拠品の鑑定をこなした。
土門も小野田を送検するための裏付け捜査を行い。
熊谷は小野田の移送について和歌山県警と京都府警の橋渡しを、とお互い顔を会わせる暇もないほど忙殺された。
そんな日々も少しずつ落ち着き、熊谷は和歌山へ戻る前日に、マリコを屋上へ呼び出した。
「土門さん!?なんでここに……」
マリコが屋上をおとずれたとき、すでにそこには熊谷と、そして土門の姿があった。
「俺が呼んだんですよ。あの場にいた土門刑事には、榊さんの返事を聞く権利があると思ったので」
「外したほうがいいなら、俺は戻る」
土門とマリコの視線が交錯する。
「……いいえ。構わないわ」
「……そうか」
土門は改めて壁に寄りかかり、事のいく末を見守ることに決めた。
「熊谷さん」
マリコは名前を呼ぶと、熊谷の正面に立った。
その瞳には、今、熊谷の姿しか映っていない。
土門は体を巡る苦い想いに、目を伏せた。
「和歌山で初めて会ったときから、あなたのことは気になっていました」
「……………」
熊谷は静かにマリコの言葉へ耳を傾けている。
「一緒に捜査していくうちに、さらにその気持ちは強くなりました。色々……お話しましたよね、私たち」
でも、とマリコは続ける。
「でもそれは、本当はあなたではなくて……」
「俺を通して、土門さんを見ていた。……違いますか?」
熊谷はマリコの台詞を引き取った。
『でも』と言われた時点で、熊谷にはすでに勝敗が見えていた。
「熊谷さん!」
「本当は分かっていました。和歌山で土門刑事のことを話す貴女を見た時から。貴女がどれほど、土門刑事のことを理解し、尊敬し、大切に思っているのか……」
熊谷は一度目を伏せると、再び続けた。
「それでも諦めきれなかった。俺が土門刑事と似ているというなら、はじめは身代わりでもいいと思った。いずれ俺自身を見てくれる……そういう自信があったから」
熊谷はそんな自分を自嘲する。
「だけど、貴女の心にはほんの少しの隙間さえ……ないんですね」
マリコは泣きそうな顔で熊谷を見た。
そして、今度は土門を振り向いた。
土門はただマリコを見つめている。
そんな土門と視線をあわせ、逸らすことなくマリコは続けた。
「ええ。私のここは……もうずっと前から一人の人で一杯なんです!」
マリコは自分の胸に手を当てる。
その小さな胸には、はち切れんばかりの土門への想いが詰まっている。
「榊さん……」
熊谷はマリコに手を差し出した。
「あの時と同じだ。やっぱり羨ましい。貴女のような人に想われる土門刑事が」
熊谷はちらりと土門を見返ると、目礼する。
土門もそれに応えた。
「明日、帰ります。お元気で……」
「熊谷さんも……」
マリコはその手を取り、精一杯の微笑みを熊谷に向けた。
自分のことを想ってくれたお礼と。
その想いに応えられない
熊谷が立ち去った後の屋上には、土門とマリコが残された。
マリコはスッキリした表情で、静かに京都の街並みを見下ろしている。
時おり、通りすぎる風に目を細めながら……。
そんなマリコを見つめる土門の胸中は、対照的だった。
ひとまず、マリコが熊谷へNOという返事をしたことに、安堵はした。
しかし、また別の想いが沸いてきたのだ。
それはずっと土門の心に棲みつき、少しずつ侵食している…『不安』という名の負の感情。
「榊……」
土門の呼び掛けに、マリコが振り返る。
「いいのか?」
「え?」
「俺はアイツみたいに……」
「アイツ、じゃないわ。熊谷さんは『馨』という名前なのよ?」
「カオル……?」
「そう。和歌山でその名前を聞いたとき、すぐに知り合いの刑事さんのことが頭に浮かんだわ。おまけに、熊谷さんは事件解決のためなら、上司に逆らったり、単独行動したり……。ダブらせるな、っていうほうが無理よね?」
マリコはちらりと土門の表情をうかがう。
「ほう。なかなか気骨のあるヤツじゃないか」
土門は口の端を上げる。
しかし、すぐに真顔に戻った。
「だが、榊。お前のその知り合いの刑事は熊谷のように、『お前を泣かせない』なんて約束はできそうにない」
「……ええ」
「それどころか、きっとまた泣かせる……」
「そうね。分かってるわ」
マリコは、『仕方ないわ』といった諦めの表情で苦笑する。
「それでも。お前が嫌だといっても。その刑事はきっとお前を離せない……」
「土門、さん?」
いつもとは違う土門の様子に、マリコは首を傾げ、その顔をのぞきこんだ。
――――― 本当はもっとマリコを笑顔にしたい。
――――― そして、ずっと幸せにしたい。
土門の中で、想いばかりが膨らんでいく。
願いだけが募っていく……。
「土門さん。泣いて………いるの?」
「泣いている?俺が?」
そう言葉にした途端、土門の瞳から小さな粒がこぼれた。
マリコは思う。
土門の涙は透明で。
とても。
とても綺麗だ、と。
「自分で気づいていないの?」
マリコはそっと土門を抱きしめた。
「ずっとここにいる。離れたりしないわ」
「榊……………」
「大丈夫。大丈夫よ、土門さん」
まるで小さな男の子に語りかけるように、マリコは“大丈夫”を繰り返す。
「すまん……」
男泣きの理由は悔しさだ。
熊谷から突きつけられた言葉に言い返せなかった自分。
マリコと熊谷を前に立ち尽くすしかなかった自分。
土門はぐいっと乱暴に顔を拭う。
「俺は情けない男だな……」
「あら!それは……困ったわ」
「榊?」
「それじゃぁ、そんな土門さんを…………………………“愛してる”私はどうしたらいいの?」
「さ、榊!?」
「今も。これから先だって、ずっと……。誰よりも愛してるから」
マリコは土門を見つめる。
どこまでも優しい色を湛えた瞳で。
「榊!」
今度は土門がマリコを抱きしめる。
でも。
どれほど力を込めようとも。
何度、その体をかき抱こうとも。
土門は、自分がマリコに抱きしめられているように感じた。
「榊。本当はもっとお前を笑顔に……」
言いかけて、土門は口を閉ざす。
マリコはただ頷いて見せた。
「ずっと幸せに…………」
どうしてもその先の言葉が続かない。
『本当に自分にできるのか?』
その不安が土門から言葉を奪っているのだ。
それだけ…土門にとってマリコの存在は大きなものになっている。
マリコは両手を伸ばし、土門の頬を包み込んだ。
「それも…。分かってるから………」
――――― だから、大丈夫。
手のひらを通して、伝わる想い。
マリコの返事に土門は瞠目した。
その瞳から、ただ一粒。
流れ落ちるのは、………愛しいアムール虎の涙。
fin.
3/3ページ