アムール虎の涙
刑事三人とマリコが現着すると、立て籠りではないものの、状況は最悪だった。
巡回の警察官に見つかった小野田は、通りがかりの女子大生を人質にとっていたのだ。
青ざめる女性の首筋にナイフを当て、小野田は奇声を上げている。
「不味いな……」
熊谷が舌打ちする。
土門は蒲原と打ち合わせると、それぞれ逆方向に走り出した。
おそらく背後から近づくつもりだろう。
「だいぶ興奮しているわ」
「ええ。まずは落ち着かせないと、女性が危険だ」
マリコと熊谷が対応を考え始めたとき、恐怖に耐えかねた女性が暴れだした。
「助けて!助けて!誰かっ!!」
「うるせぇ!大人しくしろ!」
恫喝されても、女性は必死に腕を伸ばしてもがき続ける。
「こいつ!!」
怒りに我を忘れた小野田は、そのナイフを振り上げた。
「まずいっ!」
熊谷は少しずつ小野田に近づいていく。
しかし到底間に合うはずがない。
ただ見ているだけだったマリコは、居ても立ってもいられず、ついに飛び出しかけた。
そのマリコの目が、ある光景をスローモーションで捉えた。
小野田の背後から走り寄った人影が、人質の女性を突き飛ばしたのだ。
そしてその女性の代わりに、小野田が振り下ろしたナイフの切っ先が目指したのは……。
「土門さんっ!?」
マリコの叫びは、駆け寄る捜査員たちの怒号にかき消された。
しかし彼らの姿に隠されてしまう直前、マリコは土門と小野田がもつれるようにして地面に倒れこむ様子を目撃していた。
「土門さん……………」
呆然としたマリコの瞳には、自らの意志とは関係なく、涙が盛り上がってきた。
やがて、小野田が確保されたことを確認すると、マリコは駆け出した。
目の前で倒れたままの土門は、身じろぎひとつしない。
「土門さん、土門さん!しっかりして!!」
服が汚れることも厭わず、マリコはアスファルトに膝をつき、土門の腕にしがみつく。
呼び掛けても返事のないことに、マリコの瞳から流れていくもの……。
それは土門の頬にポタリと落ちた。
「勝手に、殺すな……」
「えっ!?」
「イタ、タ………」
肩を押さえ、眉間に皺を寄せながらも土門は立ち上がる。
そしてマリコの顔を見ると、何も言わずその頬を拭った。
「ど、土門さん!大丈夫なの!?」
「肩を打っただけだ」
「で、でも……」
「血痕だってないだろう?刺されてもいない。すんでのところで足をかけたら、小野田が体勢を崩してな。間一髪、助かった」
「もう!なんて無茶するのよ……」
また、じわりとぼやけそうになる視界を、マリコは必死に堪える。
そんなマリコの様子に、切ない感情の沸き上がる土門だったが、すぐに押し殺した。
「お前には言われたくないぞ?」
「またそういうこと言って!」
肩をバシッと叩くマリコに、『痛いんだから、やめろ!』と土門は逃げる。
『待ってよ!』と二人がじゃれあって(?)いると、熊谷が近づいてきた。
「土門刑事、怪我は?」
「打ち身程度だ。それより、あの女性は?」
「ショックを受けていましたが、大丈夫そうです。念のため、病院へ搬送を頼んでおきました」
「そうか。よかった……」
土門はほっと安堵の息をつく。
「よかった?」
繰り返す熊谷の声は固い。
「土門刑事。あなたの行動は俺が見ても度が過ぎている」
「確かに。今回は、な……。まあ、結果オーライだな」
土門は苦笑する。
これでも一応は反省しているのだ。
しかし、熊谷はその程度で話を終わらせるつもりはなかった。
「土門刑事、あなたはまったく分かっていない……」
そういうと、熊谷は痛まし気にマリコを見つめた。
「こんなに目を腫らせて……」
熊谷はマリコの涙袋をすっと撫でた。
「熊谷!」
土門の鋭い声が飛ぶ。
しかし熊谷は構わず、マリコに視線を合わせたままはっきりと告げた。
「榊さん、俺と付き合ってください」
静かだが、確固たる決意を込めた熊谷の告白。
「熊谷刑事!?なにを……」
それが伝わるだけに、マリコは予想以上に狼狽えた。
「本当はこんな形ではなく、改めて伝えようと思っていました。でも……」
もう一度熊谷の手が、マリコの目尻に触れる。
「俺なら、こんな風に貴女を泣かせたりしない」
「そんな、冗談は……」
「俺は真剣ですよ。そうでなかったら、土門刑事の前で告白したりしない。俺は正々堂々、貴女を手に入れたい。こそこそするような真似は貴女に失礼だ」
そういうと先程とは逆に、熊谷はマリコを背にかばうように立ち、土門と対峙した。
「それは、俺に対する宣戦布告というわけか?」
土門もまた両の拳を固く握り、目の前の熊谷に強い眼差しを向ける。
「受けてもらえますよね?俺は負けません!」
一人の女を巡って、二人の男の視線がぶつかり合う。
一人は奪うために。
――――― 絶対に手に入れる。
一人は守るために。
――――― 何があっても渡さない。
先に口を開いたのは熊谷だ。
「どれだけ絆が強くても、どれだけ時間を積み上げたとしても。それは絶対じゃない。土門刑事、あなたはそれらの上に安住しすぎだ」
「……………」
『お前のような若造に何がわかる?』
そう思いながらも、土門の顔が苦渋に歪む。
「土門刑事。人の気持ちは移り変わるんですよ?」
言われなくても分かっている。
そんな愛憎が起こす事件を、これまで嫌というほど見てきたのだ。
ただ。
それを自分と重ね合わせたことがあるかと問われれば、土門は明確な答えを持ち合わせてはいない。
『自分はマリコに甘えすぎている』
熊谷に指摘され、土門に返す言葉はなかった。
熊谷は無言のままの土門から視線を外すと、マリコを振り返った。
「榊さん。俺とのこと、考えてみてください。そして、和歌山へ帰る前に返事を聞かせてください」
「熊谷刑事……」
「榊さん」
熊谷は手を伸ばすと、そっとマリコの髪に触れた。
その場で見つめあう二人を前に、土門はただ立ち尽くした。
足が………一歩も動かなかったのだ。