『サウイフモノニ』
「宇佐見さん、何を読んでいるんですか?」
背後から声をかけられ、宇佐見は顔を上げた。
「宮沢賢治の詩集ですよ」
「宮沢賢治?」
「マリコさんは『雨ニモマケズ』という詩を聞いたことはありませんか?」
「ああ!聞いたことあります。でも読んだことはないので、よく知らないのですが…?」
「では、読んでみますか?」
どうぞ、と宇佐見はマリコへ単行本を渡す。
『雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ』
ここまで読んだところで、マリコの脳裏には一人の姿が浮かんだ。
その続きはもちろん、違っているところもあるけれど…。
『慾ハナク』
『ホメラレモセズ』
それでも誰かのために必死になっている姿を、マリコはもう何年も見続けてきた。
じっと読み耽るマリコの手から、宇佐見は本を取り上げた。
「宇佐見さん?」
宇佐見は『雨ニモマケズ』のページに栞を挟むと、本をマリコへ返した。
「マリコさんに差し上げますよ」
「え?でも……」
「こんな読みかけの薄汚れた本でよかったら……」
「宇佐見さん…。ありがとうございます」
マリコは大切に本を抱えた。
仕事からの帰り道、マリコは運転席でステアリングを握る土門の顔をちらちらと盗み見ていた。
「なんだ?俺の顔に何かついてるか?」
土門は前を向いたまま、器用に眉だけを動かす。
「べ、べつに……」
「嘘だな…。さっきから気になって仕方がない。何を隠してる?その本と関係があるのか?」
土門はずっと前から、マリコが膝の上で握りしめている単行本の存在が気になっていた。
「この本はさっき宇佐見さんにもらったの。何も隠してなんていない。本当に何でもないわ」
「……………」
全く信用していない土門は、左手を伸ばすとマリコの右手を強く握った。
「土門さん、運転中よ!危ないわ」
「誰かさんが素直に白状しないからだろう?」
離される気配のないことを悟ると、マリコはため息をつき、土門のゴツゴツとした手の甲をなぞる。
「土門さんは『雨ニモマケズ』って知ってる?」
「宮沢賢治のか?」
「知ってるの?」
「日本人ならまあ、常識だと思うぞ?」
「へー」
「『へー』ってお前……」
土門は何ともいえない顔をする。
「で、それがどうかしたのか?」
「ん。この本に載っていて、今日はじめてちゃんと読んでみたの。そうしたら、土門さんの顔が浮かんだわ」
「俺か?」
「そうよ。屈強な体をしているし、欲深くもないし、たとえ誰にも誉められなくても、必死に犯人を追い続けている。もう何年もずっと。それってすごいことよね……」
「それが仕事だからな」
照れているのか、土門はぶっきらぼうに答える。
「褒めてもらえるのは光栄だ。だが、お前は誤解しているぞ?」
そういうと、土門は苦笑いしながら車を脇道に停めた。
「誤解?」
「そうだ。俺はかなり欲深いぞ?本当はいつだって自分の腕の中に置いて、誰にも見せたくないし、触れさせたくない。だから…そうやって、本を貰ったと聞いただけでも、正直怒っている」
「土門さん?」
「『イツモシヅカニワラッテヰル』なんて俺にはできやしない」
「……何のこと?」
「ん?そりゃあ、もちろん……」
土門はマリコの頬を輪郭に沿って、ゆっくりと撫でる。
「今夜一晩かけて、ゆっくり教えてやる」
土門は少し乱暴にマリコの唇を奪う。
驚いて逃げる舌を追いかけ、土門は味わう。
口づけの合間に、その本を視界に捕らえた土門は……「あながち誤解ばかりでもなかったか?」と思い直した。
そうだ。
始めと終わり。
『雨ニモマケズ
風ニモマケズ』
……お前を護る。
『サウイフモノニ』
――――― 俺はなりたい。
fin.
※以下に全文を転載します。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.htmlよりお借りしました。
〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
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