大正浪漫譚
それから数日。
二人は時間ができると、碁盤に向かい合っていた。
「…うーん。ちょっと待った」
「またですか?もう待ったはなしです」
「いや。そこをなんとか……」
「ダメよ。土門さん!」
「は?」
「あ!ごめんなさい。私、つい……」
マリコはまるで土門と自宅で寛いでいるかのような気分になっていた。
「いや。マリコさんは強いな」
何度やっても詰められてしまう土門少尉は、やや落ち込んでいる。
しかし、同時にこの雰囲気を楽しんでいるのも確かだった。
マリコとの他愛ない会話で笑い合ったり、ふいに視線が絡むと何故かはにかんだように逸らしてしまったり。
そんな甘酸っぱいような自分の気持ちが、土門少尉には心地よかった。
一方のマリコも、土門少尉が土門とは別人だと分かっていても、耳に馴染んだ声や、自分に向けられる表情に、つい、いつものように甘えたくなってしまう。
碁盤を挟んで、二人は見つめあう。
自然と互いの手が相手へと伸びる。
その手が触れあう……はずが、すり抜けた。
「え?」
「なに?」
マリコの手が半透明に透けていた。
「どういうこと?」
透ける部分が少しずつ広がる自分の手を、マリコは呆然と見つめている。
「もしかして……戻るのか?」
「戻る?」
「マリコさん、とにかく自分の服に着替えておいたほうがいい」
「は、はい」
今度は肩が透け出したのか、着物がずれだした。
マリコは慌てて部屋に向かい、片手で不自由ながらも、何とか袴を脱いだ。
不思議なことに、透けた左手はこの時代のものには触れられないのに、元の服はしっかりとつかむことができた。
やはりタイムリミットが近づいているのかもしれない。
マリコは白衣まで羽織ると、土門少尉の部屋へ戻る。
「やはり、その服は着ることができるのか……」
「土門少尉……」
「良かった」
「え?」
「あなたは元の世界へ戻ったほうがいい。待っている人もいるだろう?」
「…………」
こうしている間にも、マリコはどんどん透き通っていく。
「あれから4日か……」
土門の言葉に、マリコは壁の日めくりに目を向けた。
――――― あ!今日は……。
「そうだわ!土門少尉にこれを」
マリコは白衣のポケットを探る。
そして、取り出したのは小さな箱。
マリコはそれを、土門少尉の手のひらに乗せた。
「これは…美しい包みの箱だ」
「中にはチョコレートが入っているんですよ」
「チョコレートが?こんな小さな箱に?」
「ええ。私の住む世界では、今日、大切な男性に女性からチョコレートを渡す風習があるんです」
「大切な男性……」
ほぼ全身が透き通り出したマリコに、土門少尉は聞かずにはいられなかった。
「マリコさん、元の世界には…あなたの大切な人がいるのか?」
「……はい」
マリコははにかみながらも、しっかりとうなづいた。
「……そうか。うらやましいな、その人が」
できることなら、このまま留めておきたい。
帰したくない……。
自分の本当の気持ちに蓋をして、土門少尉は一人嘯く。
マリコはそんな土門少尉を見つめ、小さく首を傾げた。
そして『その人は』と口にした。
「その人は……土門薫という人です」
「なに!?」
「土門少尉、もしかしてあなたの下の名前は……」
「……薫、だ」
「やっぱり……」
「これはどういうことなんだ……?」
「『二つの地球』という学説を聞いたことがあります。太陽を挟んでもう一つ地球と同じ惑星が存在するのではないか、というものです。もしかしたら、ここは私が住む地球の反対側…そう!鏡のようなものなのかもしれませんね」
「鏡……」
「だから、きっとこの世界にも『榊マリコ』はいます。土門少尉。どうか“私”を見つけてください。あなただけの“私”を……」
そう言い残し、マリコは消えた。
『はっ!』とまるで夢から覚めたように土門少尉は目をしばたいた。
そして、手のひらに乗った小さな箱を不思議そうに見つめる。
「ん?これはなんだ?」
ただ綺麗なだけの箱なのに。
でも、何かとてつもなく大切なものだということはわかる。
土門少尉は、大切にその箱を両手で包み込んだ。
「あぶないっ!そこの軍人さん、どいて~」
キキーッという耳障りな金属音に、悲鳴。
続くのは派手な衝突音。
そして、舞い降りたのは彼女と良く似た……。
土門少尉が再び自転車事故に遭遇するのは、もう少しだけ先のことである。
「土門さん!」
「なんだ?」
ガバっと起き上がったマリコの肩から土門のジャケットが滑り落ちる。
「え?あれ?……ええと……」
「榊?」
「土門さん……よね?」
「寝ぼけているのか?」
「ううん…。何だか長い夢を見ていたみたい……」
「どんな夢だ?俺が出ていたのか?」
「うーん。それが思い出せないのよ」
「……………」
土門は呆れ顔だ。
「起きたなら、帰るぞ。さっさと白衣を着替えろ」
土門がマリコのバッグを手にする。
自分のバッグをからのぞく紙袋を見て、マリコは思い出した。
「あ!待って、土門さん。今日はバレンタインデーよね?確かここに……」
ごそごそと白衣のポケットを探る。
「お前がそんなイベントを覚えているなんて奇跡だな……」
憎まれ口を叩きながらも、土門は嬉しそうだ。
「あら?…ない。……あっ!そうか。あげたんだわ」
独りごちていたマリコに、すっと手が伸びる。
そして顎に触れると、そのままくいっとマリコの顔が土門と向き合う形になった。
「誰にだ?」
「土門さん?」
「誰にやったんだ?」
土門の声は徐々に低くなる。
「誰に?あれは……そう。自転車で転んで…………」
「なに!?いつだ?怪我は??」
途端に焦り出した土門は、マリコの腕や腰に触れ、怪我がないか確かめる。
「ち、ちょっと土門さん!止めて……」
「痛むところはないのか?」
尚も自身の身体を検分する土門の手を、マリコは掴んだ。
その大きくて武骨な手は、マリコのよく知るものだ。
他の誰とも違う。
そしてそれは、マリコだけのものだ。
――――― 戻ってきた……。
どこからなのか、何からなのかはわからない。
それでも、マリコはほっと安堵のため息をついた。
『目の前に、土門さんが居る』
マリコはその手に自分の指を絡ませた。
「榊?」
「そこから先の確認は、家に帰ってからにして……?」
マリコの言葉に、土門が目をみはる。
「榊、お前…自分が何を言ってるのか分かっているのか?」
滅多にないマリコからの誘いが、土門には、にわかに信じがたい。
「分かってるわよ。土門さんにあげるはずのチョコレート、転んだときに助けてくれた人にあげちゃったみたいなの。だから……」
――――― 代わりは…私でいいかしら?
そっと耳をくすぐる甘い囁きに、土門が否を唱えるはずもなく……。
「約束だぞ?」
そういうと、土門はマリコの腰を抱き寄せ、契約の印を一つ。
その唇へ落とすのだった。
fin.
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