Love is all
夜の海は視界が悪く、打ち寄せる浪の音はいつもより大きい。
まるで自分を飲み込もうとしているかのように感じられ、マリコは身震いした。
土門の手術が成功したと聞き、マリコは少しだけ胸を撫で下ろしICUへ向かった。
酸素マスクをつけた土門の姿に心は痛んだけれど、同時に自分が支えなれば…と決意も新たになった。
しかし、マリコはふと隣のベッドに視線を移し、そんな決意が一度に砕け散るのを感じた。
隣のベットの患者も、同じ事件の被害者のようだった。
入室禁止のはずのベットの横には、一人の男性が立ち尽くしていた。
その男性はうつ向いたまま、右手でその患者の手を握っていた。
だがその患者の表情をうかがい知ることはできない。
なぜなら、その顔はすでに白い布で覆われていたからだ。
マリコが早月の病院や、霊安室で目にするご遺体と同じように。
ただ白い布の端からこぼれ出ている美しい黒髪が、そのご遺体が女性であることを物語っていた。
まだ温かい手のひらから、徐々に体温がが失われていく過程を、彼は今、感じているはずだ。
微動だにせず、ただじっと。
涙を流すことも、慟哭することもなく。
もしかすると、息をすることさえ忘れているのかもしれない。
それでも、一瞬の温もりを忘れないように。
自分の手のひらに刻み付けているのだろう。
マリコは彼に自分の姿を重ねた。
あそこに立っているのは、自分だったかもしれないのだ。
そう考えたら……。
カタカタと体が震えだし止まらない。
もし、土門が居なくなったら……。
大きな不安に襲われると同時に。
もう一つ、別の思いがマリコの頭を過った。
マリコはじりじりとガラスの壁から離れる。
そして、土門を振り返ることなく部屋を出た。
どこをどう歩いたのか、気づけばマリコは海にたどり着いていた。
何も考えず無心で暗い海のその先を見続けていると、ポケットが震える。
何度目かのそれを無視しようとして、でも、ふと画面に表示された名前を見て、マリコは心臓が止まりそうになった。
「もしもし、美貴ちゃん?土門さんに何か……?」
『マリコさん、お久しぶりです。え?お兄ちゃん、どうかしたんですか?』
美貴はわざと惚ける。
「あ、いいえ。あの……」
言い淀んでしまったマリコに、美貴は電話の向こうで舌を出す。
『嘘です。ごめんなさい、マリコさん。所長から連絡を貰って、今、お兄ちゃんの病室の前にいます。お兄ちゃんの容態は安定していますよ』
「父さんから?父さんもそこにいるの?」
『はい。お母様も』
「そう。まずは美貴ちゃんに連絡をするべきだったのに、私ったら気が動転していたのね……ごめんなさい」
『いいえ。でも何だか安心しました』
「え?」
『お兄ちゃんが、マリコさんを動転させられるような存在になれたんだなぁ、って!』
「美貴ちゃんってば!」
『えへへ…』
美貴の明るい声に、マリコの気持ちは少しずつ浮上していた。
『マリコさん』
「なあに?」
『ご両親が心配されています。戻ってきてください。何より……お兄ちゃんを一人にしないでやってください、ね?』
「…………」
マリコは息を飲んだ。
自分はこんなところで何をしているのだろう?
さっき病室で隣の二人を見たとき、マリコは思ったのだ。
土門が居なくなったら、一人になってしまう。
寂しい。
悲しい。
遺されたくはない。
だから、“一人にしないで”……と。
それなのに、自分が土門を一人にしようとしていた。
目覚めたとき、側にいるべきなのに。
その手を握って、勇気づけるべきなのに。
「美貴ちゃん、ごめんなさい。すぐに戻るわ。だから私が着くまで、土門さんをお願い!」
『はい、分かりました!』
どこか吹っ切れたような躊躇いのないマリコの返事に、美貴は懐かしさが込み上げてきた。
ーーーーーそれでこそ、マリコさん!
と。