Chemical change
「まいど~」
いつものように、軽い足取りで早月がパブリックスペースにやってきた。
「お菓子の先生!」
「おー!呂太青年。今日のお持たせは……」
紙袋から中身を取り出そうとした早月に、呂太が畳みかけるように叫んだ。
「大変だよ!マリコさん、お見合いするみたい!」
「……はっ?」
――― トン、トン。
ノックの音に、マリコはふり返る。
「どうぞ」
カチャリと開いた扉から早月が顔をのぞかせた。
「早月先生!こんにちは」
「マリコさん、ちょっとお邪魔してもいい?」
「ええ。もちろん」
マリコの部屋へ足を踏み入れると、早月は扉を閉める。
「何かご用ですか?」
「う、うん。えーと、まずはこれ」
解剖所見の入った封筒を差し出す。
「ありがとうございます!」
「それと……」
聞くか聞くまいか迷う早月だったが、好奇心に負けた。
「マリコさん、お見合いの準備してるって本当なの?」
「誰に聞いたんですか?」
マリコは驚いたように目を丸くする。
「呂太くんが、マリコさんから聞いたって。本当なの?」
「はい。そんなことより、早月先生。この所見なんですけど……」
マリコにとって、解剖所見の前では、お見合いも“そんなこと”らしい。
しかし、早月は一大事!とばかりに捜査一課へ向かった。
「土門さーん!」
名前を呼ばれて振り返った土門は、珍客に眉をくいっとあげた。
「風丘先生、どうしました?」
「土門さん、話があるの!今すぐに!」
「はぁ…。何ですか?」
「ここじゃ、だめよ。どこか……」
「では屋上で…」
早月のただならぬ様子に、土門は口元をひきしめると、屋上へ向かった。
「それで、何があったんですか?」
「大変よ、土門さん。マリコさんがお見合いするんだって!」
知ってた?と聞かれ、土門は首をふった。
マリコとは、ほぼ毎日のように顔を合わせ、この屋上で頻繁に話しているが、そんな大事なことは一言も聞いていない。
「…何かの間違いでは?」
「ううん。本人に確かめた」
「………」
では、事実ということだ。
「それで…、自分にどうしろと?」
「そんなこと知らないわよ。いい大人なんだから自分で考えて!私は伝えにきただけ」
「はぁ……」
呆気にとられる土門をよそに、話は終わった、とばかりに早月は出口へ向かう。
「土門さん…」
一瞬足を止め、早月がふりむく。
「今さら逃げたりしないでね」
土門の返事を聞くことなく、早月は帰っていった。
一人残された土門には、早月の言葉が重く響いた。
わかっている、わかっているが…。
土門はうつむき、足元に伸びる影を見つめた。
お見合い当日。
土門はマリコのマンションの入口に車を停め、彼女が出てくるのを待った。
ほどなくして姿を見せたマリコはワンピースこそ着ていたが、土門が予想したような着飾った姿ではなかった。
しかし、最近の見合い事情など知らない土門は“そんなものなのかもしれない…”と勝手に解釈した。
「土門さん!どうしたの?」
いるはずのない土門の姿を見つけて、マリコは目を丸くしている。
「こんな日に悪いが……事件だ」
「え?科捜研からは連絡ないわよ?」
「見合いの日だから、みんな気を回したんだろう。どうする?臨場するなら乗せていってやる」
「もちろん、行くわよ!」
マリコは早足で土門の車に乗り込む。
それを見とどけ、土門も運転席へ座ると、スタートボタンに手をかけた。
しかし、エンジンはかからない。
「土門さん?」
不思議そうな顔を向けるマリコは、土門を信じきっている。
「……やっぱりお前をだますのは気が進まない」
「どういうこと?」
土門は前を見据えたまま、シートに深く身を沈めた。
「お前を、その……見合いさせないようにしようとおもった」
「……………」
「すまん。俺にはお前の幸せを阻む権利はない。…会場まで送る」
土門は無言のまま車を走らせ、マリコは流れる景色をぼんやり見つめていた。
会場のホテルに到着すると、マリコは土門にいった。
「私を騙そうとしたつぐないに、お見合いにつきあってちょうだい!」
くりっとした瞳に、じーっと見据えられる。
土門はその目にめっぽう弱かった。
ホテルのロビーから中庭に抜けると、その一角にドッグランが併設されていた。
土門は、そこに見知った顔を見つけた。
「香坂さーん」
隣のマリコが手をふりながら、その名前をよんだ。
すると、“ワン!”という返事と共に、大型犬が柵の隙間に顔を押し付けるようにマリコを見て尻尾をふる。
「ハリーか?」
「そうよ!」
マリコはドッグランに近づくと、服が汚れるのも構わず、柵の上から手を伸ばしてハリーを撫でる。
「榊さん!」
こちらに近づいてくる香坂も、きちんとスーツを着こんでいた。
マリコの隣に立つ土門に気づくと、驚いたようだ。
「土門刑事?どうしてここに…。何か事件ですか?」
「いえ……」
「?」
煮えきらない返事の土門に、香坂が首をかしげる。
そのとき、マリコのスマホが鳴った。
「はい、榊です」
短い会話の後、電話を切ったマリコはホテルの入口へ目を向けた。
すると、白いコリーを連れた女性が、手をふりながらこちらへ近づいてきた。
「マリコさん。こんにちは」
「栃尾先生。今日はありがとうございます」
マリコは知り合いらしい女性を伴って、香坂に近づくと、互いを紹介する。
「香坂さん。こちら、獣医の栃尾彩子さんです。栃尾さん、こちらが香坂さんです」
二人は名刺を交換しあい、ふたことみこと言葉を交わすとドッグランに入っていく。
ハリーと白いコリーを対面させ、少し離れた場所から様子を見守っている。
「おい、榊。これはどういうことだ?」
「あのコリー、ミルクって言うの。可愛いわね」
「見合いって、もしかして……」
「そう。ハリーとミルクのお見合いよ」
「………」
土門は深いため息をつくと、天を仰いだ。
「お前。橋口に、見合いするって話したんじゃないのか?」
「え?準備をしてる、とは話したけど、私がお見合いするなんて、一言も言ってないわよ?」
呂太も早月も、自分も、早合点していたということか…。
「それで?私にお見合いをすっぽかさせて、土門さんはどうするつもりだったの?」
マリコはちらりと土門を見上げる。
「そりゃ…」
いたずらを見咎められたような顔で、土門は一瞬言葉に詰まる。
「……連れ去るつもりだったさ」
「……………………」
たっぷり沈黙した後の、マリコの答えは。
「……いいわよ。連れ去っても」
「帰せないぞ。……いいのか?」
土門は腰を屈めて、マリコに視線を合わせる。
「本当は私も…少し怖い。今の関係がとても心地好いから。だから、どんな風に変わってしまうのか、わからないことが怖いわ。でも、土門さんだから……」
マリコは大きな瞳で、しっかりと土門の視線を受け止めた。
「どんな変化だって受け入れられるさ。これまでも、これからも。…お前と」
「土門さんと……」
『二人なら』
fin.
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