HEAT
name change
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(あれ?)
ふと気がつけば沙明が辺りにいなかった。さっきまでプールサイドに座っていたはずだがその姿は見当たらない。
今回は予期せぬ非常事態に遭遇したから行動を共にしていただけであって、沙明からすれば偶然同じ船に乗り合わせただけの関係なのだ。いつまでも名前と一緒にいる理由はないのだろう。それをわかっていたので名前もわざわざ探しに行くようなことはせず、また水中の世界へ潜った。
瞼に水の衝撃が少なくなると名前はゆっくりと目を開いた。本物の深海ではないのであっという間に底にたどり着く。真っ暗ではなく、かといって決して明るくもない。
くるりと底に背を向けて数メートル先の水面を見上げた。水面から注ぐ光がゆらゆらとカーテンのように揺れている。目を瞑って視界を閉じれば、ますます水と同化して、自分の体が、思考が、このまま溶けて無くなってしまうのではないかと錯覚する。いつもは船の仲間を疑って疑われて、気づかないうちに疲労が溜まっていたのかもしれない。皮肉にも今の状況は名前の心に安寧をもたらしていた。
ドボン!
少し離れたところで水中に何かが落ちてきたような大きな音がした。何かと目を凝らせば沙明が慌てた様子で近づいてきた。ぐんっと腕を引かれたかと思うと、そのまま抱き抱えられて引っ張り上げられる。体ごとがっちりとホールドされてしまったため名前はなすがままだった。
「「ぷはっ」」
同時に水面に顔を出す。
「お前、何してんだよ! マジであの世にイッちまうぞ⁉︎」
「ゲホッ、ゲホッ!」
「プールで寝る奴がいるかよ‼︎」
弁解しようとするが驚いた拍子に器官に水が入ってしまったようで咽せるばかりだ。何度か咳を繰り返してようやく言葉を話せるくらい呼吸が整った。
「ごめん、寝てた訳じゃ……そんなつもりはなかったんだよ」
「うるせー、ボーっとしてんじゃねーよ」
名前は言い返す言葉もない。
「もう上がれ」
沙明に言われるがままプールから上がる。さっきまで灼熱地獄に思えていた船内の気温は、プールで泳いだおかげか冷えた体に暑さが心地よいぐらいだった。
プールサイドに腰掛けると沙明がすぐ隣に腰を下ろした。申し訳なさと気まずさから目線を彷徨わせていると、隣から水の入ったボトルとタオルが差し出される。そちらを見ると沙明が「ん!」と言いながらボトルとタオルを手に持っていて、やはり怒った様子で差し出していた。差し出すというより突き出している感じだ。
「ありがとう」
受け取ったボトルは冷蔵庫から取ってきたばかりのようで、ボトルの周りには水滴がついていた。これらを用意するためにさっき姿が見当たらなかったのかと名前は理解した。
タオルで軽く髪の水気を取って体が冷えないように肩にかけておく。水の中にいたとはいえ泳いだあとは喉も渇いていて、ありがたくボトルの水もいただいた。
そうして過ごしている間あまり気にしないようにしていたが、さっきからずっと沙明の視線を感じていた。何かあるのだろうかと何度か視線を送ってみるものの口を開く様子は一向にない。沙明の眉間には皺が刻まれていて、怒っているのだろうということが安易に想像できた。きっと彼の手を煩わせてしまったからだと名前は検討がついていた。
残念ながら名前にはこの場を和ませるような話題はなく、かと言って無視する図太さも持ち合わせていない。結局、直球で尋ねるほかなかった。
「お、怒ってる……?」
「…………」
無言の返事が体に突き刺さる。沙明の鋭い視線に耐えきれず名前は足元の水面に視線を落とした。しばらくすると沙明が「あのさ」とようやく口を開いてくれたので、名前は緊張した面持ちでじっと目を合わせた。
「腕……思いっきり引っ張っちまって悪かったな」
予想と違う、むしろ正反対な言葉に理解が一瞬遅れた。
「……ううん! 平気平気!」
無事をアピールするために腕を曲げ伸ばして見せると沙明は安心してくれたようだ。さっきまで眉間に刻まれていた皺は怒っていたわけではなく、ただ決まりが悪かっただけのようだ。
「つーか、溺れてたわけじゃなかったのか」
「うん……ちょっと潜水に夢中になっちゃって」
「あんま心配かけんな」
沙明の発言が信じられず、こんなことを言う沙明は本物なのか、とまじまじと彼の顔を見た。溺れてる人を助けるのは救助者も一緒に溺れる可能性もあって危険な行為だ。何よりも自己を優先するタイプの沙明からは正直考えられない。
「沙明って、もっと薄情……じゃないや。ドライな人なんだと思ってた」
「ア? 悪口か? 目の前で溺れてる奴がいたら助けるのは当たり前だろ」
いつもの軽薄な態度の彼からは想像のつかないほど慈心に溢れた考え方だ。
(君はそういう人だったのか……)
知らなかった一面を見れたことを嬉しく思う気持ちと、沙明の心に触れて感化されたあたたかい気持ちが、名前の心にじんわりと広がっていく。なんて心優しい人なのだろう、心の湧水は止まることを知らず溢れてくる。
「……それを当たり前と言ってのけて行動に移せるところは、君の美点だね」
残念ながらそれについての沙明からの返事はなかったが。