青春エピグラフ
name change
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「遅っせ」
当たり前だろう。登校して早々に授業をフケたオレとは違い、彼女は真面目に4限目まで授業を受けてからこの校舎裏のベンチにやってきたのだから。
〈ごめんね〉
顔の前で手を軽く振り下ろして「ごめんなさい」と身振りで伝えてくる。声を出さずとも彼女は表情と、それから身振り手振りで流暢に語りかけてくるのだ。
彼女、苗字名前に至っては比喩表現ではなく字の通り“手で語り”かけてくる。
生まれてすぐに器官ナントカ症とやらで手術をした為、しゃべることができないのだと教えてもらった。
そのせいでどうしてもクラスから浮いてしまい、いわゆるヤンキーとして学校から浮いているオレがいるような、こんな校舎の隅に流れ着いたらしい。
オレが初めて苗字名前に出会ったとき、最初にしたことは威嚇だった。
昼休みになると静かだった授業中とは一転、学校中がざわざわと騒がしくなる。そうするとオレは喧騒から逃げるようにこの校舎裏のベンチにやってくるのだ。
その日もいつもと同じように校舎裏にたどり着くとそこには見慣れぬ女子生徒がいた。ベンチに座って数メートル離れた黒猫と向かい合って何かしているようだ。
オレがせっかく見つけた一人になれるスポットだったのに、と怒りが湧いてくる。今思えば誰のものでもないはずなのに実に勝手な話である。
女だからって容赦しねェ。ちょっとビビらせてやろうと大股で威圧するように近付いていく。それにも関わらず先に尻尾を巻いたのはオレのほうだった。
その女子は黒猫に向かって指差したり手をパタパタ動かしたかと思うと肩を震わせながら声もなく笑ってやがる。
正直、ヤベー奴がいると思った。
普通ネコを見たらニャーと鳴き声を真似てみたり撫でたりだろう。なんだあれ……。
様子を伺うために物陰に隠れてオレは小さな目をできるだけ開いて観察した。
結果、ありゃ何かの儀式だな。関わらんとこ。という結論に至った。
気付かれぬうちに撤退しようと決め、そのまま後退りするとジャリと地面を擦る音が鳴ってしまった。
チッ。何一つうまくいかなくて思わず舌を鳴らす。
耳の良いネコはあっという間にどこかへ行ってしまい、件の女子は音の発生源であるオレの方を見た。
怒ってるでもなさそうだが一言もしゃべらずにただこちらを見ている。
数秒、睨み合いの状態が続いた。
女は何度か瞬きを繰り返したあと、何かに気づいた表情をすると腰を浮かせて数センチ端のほうへズレる。そうして空いたスペースを作ると〈お隣どうぞ〉とベンチを指差した。
違う。いや違わない。たしかにそこに座りたかったけど、別に仲良しこよし一緒に座りたかったしわけじゃねェ!
次々と起こる予想外の出来事に無い脳みそをフル回転させて対処法を考えるが、お世辞にも賢いとは言えないオレの思考力では限界だった。
そして先に降参したオレには“従う”以外の選択肢はなかった。
隣の女子はどう見ても先輩には見えなくて「1年?」と素直に尋ねた。
女はこくりと頷いて手に持っていた携帯電話に文字を打ち込む。
[1年D組 苗字名前]
オレが見たことを確認するとさらに文字を打ち込む。向けられた画面を確認すると女の名前の下に[あなたの名前は?]とあった。
「1年E組、荒北靖友……」
[よろしく]
文章は好意的なのに苗字名前は一向に口を開く様子はない。
この頃のオレは——今もかもしれないが、——相手の事情を推し量ることもなくズケズケと土足で上がっていく遠慮を知らないガキだった。
「てゆーかなんで喋んねェの? ビビってんのかァ?」
最初はオレの方からビビらせに行ったくせに。しかもオレのほうが負けたくせにこの質問は笑える。
まあ良い子ちゃんの多いハコガクではめずらしいこんなカッコだし怖がるのも無理ねェか……。
とはいえ一言も話しかけられないのはそれはそれで傷つく難しいお年頃なのだ。
女はまた携帯で文字を打つ。
[私、病気でしゃべれない]
「は? マジかよ……」
ウソだろ、は言葉にならなかった。
液晶に映された文字と彼女の顔を交互に見る。至って真面目な顔は冗談でもなんでもないということを示していた。
彼女がしゃべらないことにはちゃんと事情があったのだ。
そうしてオレはやっと気付いた。さっきネコの前でパタパタと手を動かしていたのは、おそらく手話というやつで彼女なりに猫に話しかけていたのだ。
変な儀式をしているなんて考えたことが急に申し訳なく思えて「悪かったな」と素直に謝ることにした。
名前はまたカチカチと文字を打つ。
[気にしてない]
それを体で表すようにまた手をパタパタと振った。
そのあとは無言の時間が続く。オレがしゃべらなければ当然だ。だがオレも誰かと会話するのは得意ではないし、ましてや女子相手だし。
やっぱり引き返しておけばよかったと後悔していた頃トントンと腕を突かれる。
「ア?」
そちらを向くとまた携帯の画面を突きつけられていた。
[荒北くんはネコ好き?]
「ネコ? は? 別に」
嘘だ。本当は……まあ、普通に好きだ。でも素直に従うのは癪でついそっけない態度を取ってしまう。
そんな意味のない反抗心を見抜いたように名前は(そうなの?)という表情をして
[私はネコ大好き]
ご丁寧にネコの絵文字とハートマークまで付いてやがる。
名前はぽちぽち続けるように文字を打つ。
[ネコ飼ってみたいけど寮住みだから絶対無理]
「……オレも寮生だヨ」
名前はオレとの共通点を見つけたことに、ぱあっと顔を明るくした。
すぐに[夜、寂しくない?]と返ってきた。
「別に」
笑えた。ホームシックってやつ?寮生活というのは面倒なことは多いが、同じ年頃の男子が集まれば賑やかで煩わしさすら感じる。残念ながら彼女に共感は出来なさそうだ。
そのあとは同じ寮住みということもあって意気投合し話が弾む。名前はネコだけでなく動物全般好きなようで実家のアキちゃんのことを話すと興味をひいたようで食いついてきた。
それからというものの約束をしたわけではないが、昼休みになると、なんとなくここに集まるようになった。
二人と、たまに一匹が集まる。
名前が話しかけていた黒猫には“ノラスケ”と名前をつけた。
最初は言葉を話せない名前との対話に戸惑うこともあったが、今となってはごく自然に、当たり前のように彼女の言葉を待つ。
彼女なりの処世術かもしれないが表情豊かで実はとてもおしゃべりだ。ネコの話題から始まって今日の授業のことや昨日見たテレビの話。それにオレはテキトーに相槌を打つ。たまに「うるせー」と彼女に掛ける言葉としては的外れなことを言ってしまうこともあるが、それでも彼女はニコニコと嬉しそうに懲りずに話題を生んだ。
名前との関係は“ダチ”とよんでも差し支えないだろう。クラスは違うけれどメールアドレスも交換したし。
なんてゆーか、ネコ友って奴?
そして今日も「晩ごはんが楽しみだ」とか「部屋の掃除が大変だ」とかくだらない話をしているとあっという間にこの時間の終了を告げる予鈴が鳴る。
〈荒北くんと〉〈??〉〈??〉〈????〉
「何? どーゆー意味?」
オレを指差したから、それだけは理解できたがそれ以外の手話はよくわからなかった。
オレに伝わらなかったことが不満なのか名前は唇を突き出して素早く携帯に文字を打ち込んだ。
[荒北くんが同じクラスだったらいいのに]
名前にとってはなんてことない言葉なのかもしれない。それでもハコガクに入ってから。いや、野球で肘を壊してから……。疎まれてばかりのオレにとっては心臓を銃で撃ち抜かれたような衝撃で、空いた穴から血が滴り、ドクンドクンと心臓が跳ねるたびに熱いものが体を巡った。
「…………そーかヨ」
それを隠すように雑な返事をする。
しかし言葉に乗った「嬉しい」という感情は名前にはバレバレなようで「可笑しいね」とでも言いたげに小首を傾げて微笑んだ。
「ッ、早く行こーぜ。授業始まるぞ」
授業の開始時間なんて気にしたことないくせに、誤魔化すように彼女に背を向け歩き出す。そうすると名前は慌てて立ち上がりパタパタと上履きの音を立ててついてくる。
当たり前だが本当に置いて行くわけなくて、一歩、二歩、校舎内に足を踏み入れたところで立ち止まり、うしろを振り返る。
一拍遅れて彼女も校舎に足を踏み入れた。
それと同時に風が吹き込んできて、まるで名前が風を運んできたように思えた。
風とともに運ばれてきた緑のニオイは余りにも澄んでいて、せっかく今まで取り繕ってきたものが全て取っ払われ、自分の心、精神、人格が丸裸にされていくような気分だ。
人によっては清々しい気持ちになるんだろうがオレにはなんとも不気味だった。
それは未知のものを恐れる気持ち。それを人は杞憂と呼ぶのだと、のちに教えてもらった。
何も言わず立ち止まったままのオレの顔を名前が覗き込む。
(荒北くん?)
声はないが眉尻を下げて心配するような不安げな表情だ。本当にコイツの考えてることはわかりやすい。
「なんでもねーから。オラ、前見て歩け!」
と手頃な位置にある頭を掴んで無理矢理進行方向に歩かせる。
結果よろけることになってしまった名前はオレの胸にダイブすることになった。
痛ェ……。
オレ自身が引き起こした事故なのに勝手にキレるというなんともおかしな事態だ。
彼女との距離がゼロ距離になったことにより名前のニオイを強く感じた。
名前は不思議なニオイがする。香水や化粧品のような人工的な香りではない、かといって花や果実ほど甘くもない。
何かに似ている……と少し考えるとすぐにその答えは出た。
ああ、ちょうど今日みたいな濃い緑のニオイだ。
そう気付くとこのむせかえる程の青いニオイも悪くなく思えた。
オレは再び歩き出すために足を踏み出す。
音もなく吹く初夏の風はオレの背中を力強く押した。
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