天国白書

「ほォ。あれは、分身だった……ということでいいかねェ。こんな特技がおありだとは、知らなかったよ」

 戸愚呂弟が、どこからか現れた壊婁に獰猛な笑みを向ける。
 筋肉は80%のまま。
 彼の周囲で、威嚇するように空間がモワレを描いている。

「まあ、あなたを騙せたんだから、私の術も大したもの……ま、あれは基本、あなたを監視するだけのモノでしたからね」

 お陰でほうら、あなた方に追い付けた。
 壊婁がニンマリと笑みを返す。

 幻海が、ちらと戸愚呂弟を振り向く。

「知っている奴か?」

「お前を売り飛ばさないかと誘われたことがあるよ。魔界側の闇ブローカーだ」

 ふうん、と幻海が鼻をならしたのと同時に、永夜がすうっと目を細める。

「幻海師範を売り飛ばさないかと、戸愚呂弟さんに持ち掛けたことがある。そして、今、幻海師範が豊穣界に連れ出された時に姿を見せ、まるで幻海師範を追って来たように。奇妙ですよね」

「ああ」

 戸愚呂弟がサングラスの奥で目を光らせる。

「壊婁さん。あんた、もしかして幻海を狙ってたんじゃないのかい? 恐らく、こいつが霊光波動拳を継承してからずっと監視はしていたんだろう。宿神を宿して、あんたら『呼ばれざる者』との戦いに身を投じてからは、本格的な抹殺対象だったんじゃないかねェ?」

 壊婁はけらけらと笑い声を上げる。

「ええ? まさか、今更気付いたんですか? 駄目ですね。探偵ものだったら、読者に飽きられていますよ。こういうことは最初にピンと来てないと」

 まるで井戸端会議する女みたいな気安い口調で、壊婁は笑い続ける。

「でもねえ、私は間違ってませんよ? 幻海さん、あんたは、御覧の通り、『豊穣界』の者を甘やかす。何か交渉してくれるんじゃないかって思わせるんですよ。ダメでしょ、あんたらは人間様ですよ? 奴らには大人しく」

「なるほど。百首龍に聞いた通りだ」

 幻海は冷たく突き放す。

「『呼ばれざる者』の臣下は、人間界魔界霊界はもちろん、自然界、つまり『豊穣界』も支配の対象として見ている。だが、今まで侵攻する術がなかったんだろう。今回、あたしのことで通路が開いたからな」

 あたしもついでに始末できたらめっけものだが、本星は、百首龍だろう?
 幻海が突きつけると、壊婁はわざとらしく指を振る。

「そうそう。幻海師範の方が探偵の素質がありますねえ。戸愚呂さんみたいに、何十年も大人しく騙されてくれたりしない」

「こいつは馬鹿だからな」

 幻海は、戸愚呂弟の方を向いてにやり。
 戸愚呂弟は、「酷いね」と呟いて、またにやりと返す。
 余裕のやり取りだ。

「でも、戦いになれば大したもんだ。分身とやらで全然削れなかったのは失敗だったな」

 幻海が、すうっと霊光波動拳の構えを取る。
 戸愚呂が、その横でサングラスを外して背後に放る。

「まあ、お望みならお相手しますよ、壊婁さん。ご存知のように今いいところなんでね。幻海(こいつ)の前でかっこつけられる機会は逃したくない」

 言うなり、戸愚呂の全身が妖気に包まれる。
 ぐぐっと、一回りは体が大きくなったようだ。
 もはや筋肉というより、奇怪な鎧のように盛り上がった筋肉は、肩からあやかしの炎を噴き上げる器官を備えている。
 ぐいっと、壊婁の体が引っ張られたように見える。
 戸愚呂弟は、凄まじい勢いで、壊婁の時間を食い尽くそうとしているのだ。
 流石に壊婁はきつそうな顔を見せる。

「戸愚呂さんに、こちらを。オン・バザラヤキシャ・ウン!!」

 永夜が、金剛夜叉明王の咒を口にする。
 過去現在未来、あらゆる時空の不浄を食らい尽くす炎の如き明王の咒。
 戸愚呂の肩の炎がますます大きな火柱となる。
 戸愚呂弟、幻海、永夜、翠羅の周囲に展開している、奇怪なモワレのような空間の歪みが、激しく明滅する。
 戸愚呂弟の時空間浸蝕に、壊婁の空間が負けようとしている。

【おいこら。あたしにも噛みつかせろ!! 人の主をあっさり始末するだのなんだのと、舐めたこと抜かしやがって!!】

 翠羅が審判の光を降らせた――と同時。
 歪みの波が、突如大きくなり、翠羅を飲み込む。

【このっ!?】

 翠羅の光は防がれ、翠羅自身は歪みそのもので体を削られる。
 宝石のような、鱗が飛び散る。

「無駄無駄、無駄だっていうのにィ」

 いつの間にか、壊婁の姿は歪みの洪水に飲み込まれてどこにも見えない。
 声だけが、どこからともなく響く。

「この歪み、何だと思います!? この『豊穣界』を浸蝕して、私の力に変えているんですよ。豊穣界が基準のあなたに、勝てる訳ないでショ?」

 歪みが巨大な斧となって、翠羅ばかりか、戸愚呂弟や幻海、永夜を打ち据える。

「くっ……!!」

 永夜の不動行者加護は辛うじて間に合ったが、永夜も無傷とはいかない。
 直垂が切り裂かれてやや血が滲む。

 戸愚呂はちぎれかけた腕を、当たり前のような顔で、またうねくる筋肉で繋ぐ。
 幻海は、「霊光鏡反衝・烈」で、衝撃をゼロにしてのける。

「あれ? いいんですか、戸愚呂さんに幻海師範。抵抗すればするほど、この歪みは拡大して、内側からこの『豊穣界』を食い尽くしますよ? 抵抗しない方がいいんじゃないですかァ?」

 いかにも愉快そうに壊婁の声が響く。

【貴様、この……!!】

 翠羅が激しい怒号をほとばしらせる。

「なに。あなたの誤算は、大元帥明王の加護を受けた戸愚呂弟さんがいることを甘く見ていた事実に尽きますよ。あなたとこの空間は、戸愚呂さんがここで戦うことで、もう包囲されています。拡大できません」

 永夜は、相手が明らかに動揺した声を洩らすのも構わず、最も慣れ親しんだ、大黒天の真言を唱える。

「オン・マカキャラヤ・ソワカ」

 清浄なる闇というべき力が、戸愚呂弟の体に吸い込まれていく。
 戸愚呂弟の肩から吹き上げる妖火は、黒くきらめく暗黒星雲の如きものとなる。

「来な!! 戸愚呂!!」

「行くぞ幻海!!」

 幻海が、「霊光鏡反衝・迫」の構えを見せる。
 戸愚呂弟が、霊的な太陽のように輝く幻海の掌底に、三尊の仏の加護を乗せた時空間浸蝕の拳を叩きつける。

 時空間浸蝕の不可思議な衝撃は、八方に散る。

 奇態な波のようなその異空間は、幻海の技によって増幅された戸愚呂弟の力により、一瞬でズタズタにされていたのだ。

 すでに、周囲の光景は元に戻っている。
 かぐわしい、「豊穣界」の風と光。

「あれ……おかしい、おかしいよ……そんな……」

 半身がちぎれた壊婁が、瀕死の状態で地面に投げ出されている。
 呆然と唇をわななかせている。

「ちょっとばかり、思い上がり過ぎましたなあ、壊婁さん」

 戸愚呂弟がそう口にした矢先。

 ぱくっ。

 急に伸びて来た、宵闇色に星を散らした、巨大な龍の首が、壊婁の残骸を飲み込んだのだ。

「「「え……」」」

【あ、主じゃーん!!】

 そこにいたのは。
 文字通り百条にもなろうかという多数の首を持つ、巨龍である。
 夜空を切り取ったようにきらめく鱗。
 意外と無邪気な目。
 ずるりと、きらめく虹色の門から体をひきずり出す。

[あ、きみたち。ごくろー。これあんまりおいしくなかったけど、腹にはたまるから、ごほうびあげる。なにがいい?]

 弱肉強食を実行している百首龍に、戸愚呂弟も、幻海も、永夜も、ぐったりしたのだった。
 翠羅だけが、きゃいきゃいと嬉しそうである。
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