天国白書

「ほォ。珍しい風景だねェ。朝なのに夕方になったよ」

 戸愚呂弟は、手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、立ち止まって周囲を見回す。
 まさに「夕方」。
 赤く金色を帯びた濃い光が周囲を満たす。
 いや、夕方にしてもいささか「赤すぎる」か。
 まるで舞台効果の真紅のライトのように見える。
 あるいは血を浴びせたように、か。
 戸愚呂弟のサングラスだけが、赤い光を吸い込んでいるように。

「こんな時にタイミングが悪いですね。この気配、『呼ばれざる者』関係者のお出ましですよ」

 永夜は鼻の付け根にしわを寄せる。

「へえ。これは結界術かね、永夜さん。珍しい気配だねェ」

 戸愚呂弟の疑問に、永夜は周囲を油断なく見回しながらもうなずく。

「そうですね、私たちを閉じ込めたおつもりなんでしょう。多分、かなりあちらに有利になる呪を帯びていますね、この結界は」

 戸愚呂弟は白い歯を見せてニヤリ。

「いいねェ……と言いたいところだが、今は急いでいるんだよねェ。つまらない速さで片づけた方が良さそうだ」

「あ、ちょうど来られましたね」

 永夜が前方を指す。

 やや尖った印象のある、細身の男である。
 人間ではない。
 少なくとも、純粋な人間ではなさそうだ。
 額の上半分を黒ずんだ鱗で覆われ、目の上から頭部の頂点あたりに向けて角のような二本の突起。
同じく鱗に包まれた長い腕は、肘に凶器のような棘。。
 膝から下がむき出しの肢は恐竜のようで、腰の後ろに鱗の尻尾がゆらゆらしている。

「珍しい顔だねェ、壊婁(かいる)さん。久しぶりだ」

 戸愚呂弟は、全然歓迎していないようなどすの利いた調子で、その鱗男に声をかける。
 永夜がかすかに直垂の衣擦れの音をさせながら、戸愚呂弟に視線をやる。

「お知り合いですか、戸愚呂の弟さん」

「ああ、昔の仕事、闇ブローカーというやつで、付き合いがあった人ですよ。魔界側のブローカー、壊婁さんだ」

 猛悪な笑みを浮かべる戸愚呂弟を視界の端に置きながら、永夜は静かにその鱗男を見据える。

「すると、この方はこの膨大な妖気と神気を隠して、恐らくC級妖怪のフリをしながら活動していた、と。大したものですね。大抵どこかでボロが出るものなんですが」

「いや、全く気づきませんでしたよ。昔はね。せいぜい、DとCの間くらいの妖気の、ヤクザモンの妖怪だと思っていた。こうして見ると超S級もいいところ、神気まで帯びているじゃないですか」

 と、壊婁と呼ばれた「呼ばれざる者」の信徒がけらけら笑う。

「いやいや、どーもどーも、可愛い戸愚呂さん。あなたこそ、昔はたったのB級の一般人でしたのにねえ。すっかり超S級、リンク済じゃないですか。そちらのお坊さんのお陰ですか?」

 戸愚呂は笑みを深くする。

「まあ、そんなもんですよ、壊婁さん。で、あんた、俺たちに何の用だい?」

 サングラスがぎらりと光る。

「いえね。手を組みませんかと、進言しに参った次第ですよ」

 尖った鱗の男が鋭い笑み。

「手を組む?」

 戸愚呂弟は一瞬だけ永夜と目を見かわす。
 お互いに怪訝な顔はしているようだ。

「そうですよ。いい考えだと思いませんか? 実に合理的かつ道徳的だ。幻海師範の気配が感じられませんが、さらわれるか何かしたんじゃありませんか?」

 戸愚呂がさりげなく手をポケットから出し身構える。

「いやいや!! 敵意はないですよ。むしろ逆だ。あなた方は幻海師範を助け、ついでにこの『豊穣の使徒』を追っ払いたいんでしょう? 奇遇ですな、私どもも『豊穣の使徒』には引っ込んでいてもらいたいんですよ。利害の一致」

 ほう、と戸愚呂弟が鼻を鳴らす。
 永夜が低く唸る。

「戸愚呂の弟さん、聞き入れてはいけませんよ。何かある」

「壊婁さん」

 戸愚呂弟が前に進み出る。
 永夜がはっとした顔。

「あんたから幻海の名前が出てきて、思い出したことがあるよ。覚えてるかい、会って間もない頃さ」

 壊婁の笑みは深くなり、永夜の怪訝な表情もまた。

「あんたは、俺にこう言った。『幻海のお知り合いで? あいつは目の上のたん瘤ですよ。どうです、捕まえてあたしに売り飛ばしませんか?』てね」

 永夜がその言葉にはっとする。

「俺は幻海を迎えに行くんですよ。どいてくださいませんかねェ」

 戸愚呂弟の言葉が終わらぬうちに、壊婁がけたたましく哄笑する。

「ああ、ああ、そうでしたか!! 地獄から救出してもらって、今やできてるって噂は本当だった訳だ!! それにしても記憶力がいい!!」

「あいつのことは忘れられないんですよ、どんなことでもね」

 戸愚呂弟は赤くなるような言葉を、顔色も変えずに投げる。

「でも」

 しかし、壊婁は強気を崩していない。

「ここからどうやって出ます? あんたのご自慢の筋肉も、ここでは役に立たない」

 戸愚呂は上着を脱ぎ捨てる。

「一人じゃないんですよ。いつもの兄と、違う組み合わせだ」

 言うなり、戸愚呂弟の筋肉が膨張する。
 60%程度。

「ナウマク・サマンダバザラダン・カン!!」

 永夜が素早く不動明王咒を唱え、戸愚呂弟に付与する。
 戸愚呂弟の大きな拳が燃え上がり、それが恐ろしい速度で突き出されるや、空間にひびが入る。

「え……えっ」

 まさか、という壊婁の表情。
 赤が別の紅蓮へと置き換わる。
 修業せし者の守護者、不動明王の紅蓮の炎は、いけにえの血のような汚れた赤を燃やし尽くす。
 何かが消え去り、まだ朝の清澄な光が差す。

「馬鹿な!? そんな……」

「よそ見はいけませんね」

 戸愚呂弟の拳が眼前に迫っていると、壊婁が気づいたのは、まさに打ち砕かれる一瞬前。

 何かが割れるような音。
 炎が巻き上がる音と光。

 その一瞬後には、かすかな炎の残滓だけ残して、壊婁は燃え尽きていたのだった。
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