天国白書

「それでは、戸愚呂のお兄さん。弟さんをお借りしますね」

 永夜が、廊下から、普段なら幻海が座っている、寺の居間の上座に居座る戸愚呂兄に向って、そう告げる。
 まだ昼にならない時間。
 午前中の澄んだ光が、夏の枝葉の影を落とす。
 ざわざわ。
 誰かが囁いているように、かすかな風に枝葉が揺れ、大きな袖みたいに影もなびく。

「おう。とっとと幻海連れて帰ってこい。あと、あの女の情報忘れるなよ」

 戸愚呂兄は、昨日まで幻海がプレイしていたゲームを勝手に起動している。
 弟と永夜を送るのに、気もそぞろだ。

「それ、幻海が帰ってきたら怒られるぞ。……じゃあ、皆さん、兄をよろしくお願いしますよ」

 戸愚呂弟は苦笑しつつ、兄と一緒になってゲームをプレイしたり、気ままに寝そべったりしている面々に挨拶を送る。

「おう、任せとけ、しっかりガードするだよ」

 コントローラーの順番待ちをしていた陣が元気よく応じる。
 そこにいるのは、陣の他に、凍矢、酎、鈴駒、鈴木、死々若丸の六人衆。
 彼らは蔵馬のツテで、魔界から助っ人に来ていたのだ。
 蔵馬はじめ四人組は、現在街中に出没している「豊穣の使徒」を駆逐する作業に従事している。
 なんでも「豊穣の使徒」は危なくなると元の世界に瞬間転移するらしく、いくら追い散らしても終わらないのだ。
 しかし、放ってもおけない。

「兄者、ゲームに夢中になってないで、ちゃんと例のビーコン打っておきなよ。限界があの門から戻って来るかも知れないだろ」

 戸愚呂弟は、そう注意を促す。
 戸愚呂兄は、ちょうど負けて画面が爆炎模様になったところで顔を上げる。

「わー――ったよ。人間、女、霊感バカ強い、ついでに腕っぷし。そういう奴限定で届くビーコン打ってるわ。オメーに感知できねえだけで、幻海が近づけば反応するってえの」

 戸愚呂兄が残る理由、それは彼が「特定の条件に当てはまる者限定で届く信号を発信できるから」というもの。
 この場合は幻海に届く信号を常にこの寺から発信し続ける役目があるのだ。
 一人で取り残しては物騒だというので、蔵馬がガード役に六人衆を呼び寄せたという次第である。

「しかし、不思議であるな?」

 最中を食べていた鈴木が、ふと顔を上げる。

「お前たち兄弟は元人間だろう? 何でここまで妖怪顔負けの高度な特殊能力を備えているのだ? どういう細工をした?」

 けけけ、と戸愚呂兄が笑う。

「その答えはなァ、『俺たちにもわからねえ』だよ」

 戸愚呂弟は軽く首をかしげる。
 兄より真面目に答えようとはしているようだ。

「ま……俺らはそこまで学はないんでね。この際、700年生きて人間と妖怪を見つめて来た永夜さんに、講義でもしてもらったらどうだい? ちょっと聞いたけど、割と面白い話が聞けるよ?」

 永夜はそれを受けて軽く笑う。

「ま、物凄く大まかに申しますと、人間から妖怪に転生する場合は、元々人間として積み重ねた鍛錬及び元々の資質や精神傾向なんかが、妖力に反映されやすいのですよ。幻海師範は渋い顔でいらしたようですが、戸愚呂さんご兄弟みたいに、鍛錬された武術家さんが妖怪に転生するのは、手段としては悪くはないのですよね」

 ほお、と戸愚呂弟が顎をひねる。

「永夜さん。話しながら行きましょうか。その辺のことを詳しくお願いしますよ。あと、連れて戻れたら、幻海にもそう言ってやってくださらないですかねえ。あたしらが言えば言い訳だが、あんたみたいな修業した人が言えば道理だ」

 永夜は苦笑し、バディ二人は不思議な異界感が漂う昼間の街へと降りていく。
 目的地は、街を横断して反対側の山すその祠。
 かつて百の頭の龍が暴れていたとか……伝説は伝える。



◆ ◇

「永夜さん」

 街中で、今まさに小型の「豊穣の使徒」を軽いパンチで破裂させながら、戸愚呂弟は呼びかける。

「何か? 先ほどから私に訊きたいことがありそうに見受けられるのですが……」

 永夜はさきほどの話であろうかと思うのか、首をかすかにひねる。
 彼は今のところ戸愚呂弟が「豊穣の使徒」を葬りやすいように、支援の術を彼にかけている。

「あんたねェ。幻海とはどのくらい前から知り合いだったんだい?」

「え?」

 不意打ちの妙な戸愚呂弟の問いに、永夜は一瞬きょとんとする。

「いや……前々からご高名は伺っておりましたが、直接お会いしたのは、あなた様のニセモノが幻海師範を襲った時が初めてで」

 戸愚呂弟はサングラスを指で押し上げて、ふうとかすかに安堵の溜息。

「嘘じゃなさそうだね。あんたにそういう気があるんなら、あんたの実は激しい性格からして、俺にはっきり言うだろうからねェ」

「え? あの」

 永夜は流石に目をぱちぱちさせる。

「何ですかそのお話。私、どのように思われているのですか?」

「いえね」

 戸愚呂弟はくすりと笑う。
 真っ白な歯。

「兄者が変なことをぬかすもんですから、つい俺も不安になりましてね。あんたと幻海が同宗派で仲が良いとか何とか。できてるみたいな話をさももっともらしく」

「えっ……いや……ちょっと待ってくださいよ!!」

 永夜は目を白黒させている。

「事実無根です!! 幻海師範のことは尊敬しておりますけれども、女性としてどうこうなど、そんな大それたことは……」

 ああ、と戸愚呂は納得の笑い。

「ああ、すみませんね。びっくりさせて。そもそも修業を重ねたお坊さんに、こんな生臭い話をするなんてねェ。無礼千万とは思ったのですが、何せ気になっていたもんですから……俺も俗物だ」

 永夜は戸愚呂弟が矛を収めたので、安堵の溜息をつく。

「私、修業の身とはいえ、思い切れない女性が別におりますから。700年前に、亡くなったひとですが」

 戸愚呂弟は、ああ、と思い至る。

「奥さん……」

「ええ。まあ。まだ、会えないんです」

 永夜の笑みは、今まで見た中で一番寂しそうだ。

「……こんなことを申し上げては、お気を悪くなさるでしょうが……親父さんに、似ておられますな。そっくりだ」

 戸愚呂が何気なくこぼした感想に、永夜は更に笑みを重ねる。

「ええ、あの人のことは嫌いなはずなんですけどね。何ででしょうね。気持ちがわかりすぎるんです。痛いほど」

 戸愚呂弟はふと思う。
 永夜と雷禅の関係修復のこと、幻海に相談してみようか。
 このままじゃ気の毒だしねェ。

 ふと。

 戸愚呂弟と永夜の足が止まる。

「何かいますね……」

 片側に川が流れた雑居ビルの連なる一角。
 そこが、一瞬にして夕方のような真っ赤に染まり、何か妙な匂いが漂い出したのだった。
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