天国白書

「ほォ? いい女だな?」

 五階建ての商業ビルの屋上に立つその女を見上げながら、戸愚呂兄が弟の肩の上で喉を鳴らす。
 戸愚呂弟は思わず苦笑。

「ああ、わかるよ。ああいう感じのお嬢さん、あんたの好みだろ。だが、駄目だぞ、やめておけ兄者」

 戸愚呂兄は思わず弟を見やる。
 弟はサングラスをついと指で押し上げながら、更に苦笑。

「ありゃあヤバイ存在だよ。種族がどうこういう問題じゃない、それ以前にヤバイんだ。多分、その気になれば世界を滅ぼせるだろうさ」

 ぎらりと。
 サングラスが光を反射する。

「おおう」

 戸愚呂兄は笑みを深くする。

「たまんねえな。そのくらいでないとグッと来ねえ。よお、弟。俺をあの女の傍まで連れていけよ」

「いい加減破滅型だねェ、あんたも」

 戸愚呂弟は流石に動かず、その翠羅と名乗る女と、狼蓮、羽全と呼ばれた「豊穣の使徒」に注意を向ける。
 いずれも邪悪ではない。
 だが、滅びをもたらす存在だというのは、戸愚呂弟の本能にビンビンと突き刺さる刺激だ。

「豊穣の使徒であらせられる、狼蓮様、羽全様、そして翠羅様!!」

 永夜が前に進み出る。

「お伺いしたいことがございます。何故、この地においでになったのですか? 幻海師範が姿を消したのと何か関係が……」

「まあねー。やっぱりうちの主もさあ、色々考えてるのよ」

 相変わらず蓮っ葉な口調で、翠羅はけらけら笑う。

「ほら、あの人土地持ちじゃん? 人間のための土地もあるけど、それ以外の生き物のための土地も確保してくれてるんだよねー。まあ、その辺で、ウチの主も色々と思うところがあるっていうかねぇ」

 それを聞いて戸愚呂弟は思い出す。
 山の中の寺。
 周囲は、人間のための道を除けば、人間以外の生き物たちが繁栄できるための手つかずの自然。
 一部、人間の手も入った場所の方が繁栄しやすい生き物のために、人為的に開けた場所を作ったり山小屋を置いたりして、時々幻海自身やアルバイトの妖怪などを雇って手入れしている。
 幻海は誰に告げるでもなく、ずっとそんな活動をしていたのだ。
「大自然を司る存在」が幻海に興味を引かれ、自分の元にいざなったとしても、至極当然なのではないか。

 ――だが、ならば幻海をよろしくなんて言えるかって話だねェ。

「お嬢さん。御託は後日うかがうとするにして、幻海はどこにいるんだい。知ってるんだろ?」

 戸愚呂弟は頭上を見上げ声を張り上げる。
 と。
 その女が、いきなり立っていた手すりを蹴る。
 くるりと空中で一回転、まるで鳥みたいに軽やかにコンクリートの歩道に降り立つ。
 ヒールの高い靴を履いているというのに。

「あんねー。わかってると思うけど、幻海ちゃんはうちらの主の、百首龍様のところだよ。まあでも、行けるもんなら行ってみろってところだよねー」

 ひょいと立ち上がり、翠羅は戸愚呂兄弟の目の前で腕組みする。
 戸愚呂兄弟はいつでも応じられる構えだが、永夜は自然に戦闘態勢に入り、幽助や桑原、蔵馬、飛影は流石に距離を取る。

「百首龍様のところ、か。あんたらの世界っていうことだねェ」

 戸愚呂弟は確認の意を込めて尋ねる。
 しかし、世界一つというなら、どれほど広大な場所なのか。
 人間界、場合によっては魔界より広大なのではないか。
 その中のどこに幻海はいるのか。
 帰って来ないということは、帰れない状況なのだろう。
 脅されているのか。
 あり得る話だ。

「だが、永夜さんがいれば、あんたらの世界にも渡れるはずだからねェ。それはいいとして」

 幻海は、いつも俺が一人で抱え込むって言っていたが、幻海こそだ。
 あいつに俺を笑えるのか。
 迎えに行って、連れ戻したらからかってやろう。
 当分このネタで要求を通せそうじゃないか。
 そのためには。

「幻海があんたらの主さんのところにいるっていうんなら、あんたらの主さんとやらのところへ案内してもらいましょうか。嫌と言わせるつもりはないよ」

 戸愚呂弟は、戻していた筋肉を再び肥大させる。
 まるで申し合わせていたように、戸愚呂兄が棘だらけの籠手となって、弟の右腕を覆う。
 まるで日食の時の黒い太陽のように、戸愚呂弟の全身から黒く輝く神気が立ち上る。
 空間を歪めるような「蝕」の気配。
 翠羅の白い肌、手の皮膚の表面が薄黒く朽ちていく。

「んんん、強いんだねえ、お兄さん!! じゃあ、こっちも本気で行こうかぁ!!」

 瞬間、強い光が弾ける。

 頭上を覆う影を、戸愚呂弟も、永夜も、幽助、蔵馬、飛影も見上げる。
 そこにいたのは、恐ろしく大きな生き物である。
 一見、巨大な魚にも、巨大な龍にも似る。

 真珠色に柔らかく照り映える表面の鱗。
 翼のように大きなヒレは、太陽が降りて来たような虹色に輝く。
 細長い流線型のフォルムは、優美な魚そのものであるが、大きさは一区画を覆うほど。
 リュウグウノツカイのような優雅な突起がなびき、大きな目は地球のミニチュアのような碧さ。

「ほォ」

 戸愚呂弟は、サングラスの奥で目を光らせニヤリと笑う。

「世界を背中に乗せている伝説の魚っていうのは、こんな感じかねェ」

「感心してる場合か。妙だぞこいつ!!」

 戸愚呂兄が、籠手の上部に浮かび上がった顔で呻く。
 翠羅だった巨大魚から、まるでオーロラのような、光の帳が降りてくる。
 それに触れた途端、幽助が倒れる。

「幽助!?」

「おい!?」

「浦飯ィ!? 一体!?」

 蔵馬、飛影、桑原が叫ぶ。
 見るや、そこに倒れていた幽助の姿がおかしい。
 まるで水に濡らした水彩画のように、妙に薄くなっている。
 半透明に透ける姿は、本当に幽霊だった頃でもここまで薄くない。

「しまった!!」

 永夜が、何事か唱えて幽助に手をかざす。
 一瞬でその姿が元に戻る。

「っ……!! 何だ今の!! 急に気が遠くなりやがった!! 自分がなくなるみてーな!!」

 幽助が跳ね起きつつ、そんな風に叫ぶ。
 永夜は安堵の溜息を洩らし、他の面々にも何か咒をかけたよう。

「これが翠羅様のお力だ。『自然の裁き』。『有罪』と判断した敵の、『存在』を薄めて消してしまえるのだよ」

「存在を……消すだぁ!?」

 幽助が頓狂な声を上げ、他の三人も息を呑む。
 戸愚呂兄弟も思わず顔を見合わせる。

「そういうこと。何かしらの罪を犯して、かつ、自然の中にあるものなら、何でもアタシは消しちまえるんだなあこれが。そしてこの世に『自然の中にないもの』なんかない。あんたらの言う人工物だって、元は自然のものをかすめ取って作ったものでしょ?」

 頭上を悠々と泳ぐ巨大魚から、翠羅の声がする。
 戸愚呂弟は感心を通り越してにやりと笑う。
 相手にとって不足なし。

「さあ、覚悟はいいかな? そんな防御壁だけじゃ」

「そう思うかねェ!?」

 永夜が素早く新たな咒を唱えたのと同時に、戸愚呂弟が宙を踏む。
 何もないはずのところを蹴って大跳躍。
 頭上の翠羅のヒレに取り付く。
 そのまま更に跳んで、翠羅の真珠色に銀のちらちらする背中へ。

「ぬゥん!!」

 翠羅の背中に膝をつき、戸愚呂弟は、黒い「蝕」の力を纏った拳を、翠羅の背中に叩き込む。
 奇怪な悲鳴が上がる。
 白い雪原のような背中に、黒い「時空を蝕む力」が拡大し、白を黒に染める。
 翠羅が「存在を断罪する力」なら、戸愚呂弟は、「力だろうが裁きだろうが何だろうが、あらゆるものを蝕み食らい尽くす力」である。
 弟の力は「蝕」と表現される。
「蝕」の黒が白を飲み込んだのだ。

「ああ……ッ!! これは、まずい、なあッ!!」

 いきなり光の奔流が、翠羅の全身からほとばしる。
 支えを失って、戸愚呂弟は放り出されるが、永夜の咒によって空中に踏みとどまる。

 光に目を焼かれた面々が顔を上げると、そこには何もない。
 翠羅も、狼蓮も羽全も消えている。
 ついでに、彼らに従ってきたのであろう、雑多な「豊穣の使徒」も消えている。
 街はすでに真夜中のように静かにたたずむばかり。

「逃げられたか。まあ、そうだろうねェ」

 戸愚呂は悠然と肩を回し、宙を踏んで仲間たちの元へと降下して行ったのだった。
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