天国白書

 戸愚呂弟は目が覚める。
 美しい朝だ。
 雨戸と雪見障子越しにでも、うっすらと澄んだ光。
 鳥の鳴き声、清澄な山の朝の空気がかすかに。

 だが、気付いてしまう。
 隣に、一緒に寝ていたはずの、幻海の姿が、ない。

 戸愚呂弟は、寝間着のスウェットのまま飛び起きる。
 彼の体格に合わせたキングサイズのベッドは寝室の半分近くを占めているが、その左側で寝ていたはずの幻海がいない。
 咄嗟にシーツを触って確認するが、まだうっすらとぬくもりがあり、彼女が抜け出てまだ時間が経っていないことを示している。

「……幻海?」

 ただ、朝のお勤めをしに起きていただけなのか。
 それにしても早い時間なのが気にかかる。
 日の長い季節だから既に明るいだけで、冬だったらまだ真っ暗な時間帯。
 今日のところは誰か来る予定でもないのに、こんな時間に……

 ふと。
 ぞわり、と、何かが戸愚呂弟の感覚に引っ掛かる。
 妖気ではなし、霊気でもない。
 記憶にあるものでは、神界に出向いた時に感じた神気に似ているが、それとも微妙に違うように思える。

 何か、遠くで鳴いたような声がする……

「……これは……ずいぶん妙だねェ」

 戸愚呂弟はベッドから降り、スウェットとタンクトップのまま部屋から出ようとして。

「?」

 部屋の一角のローテーブルの上に、文鎮で留められたメモを見つけたのだ。
 ぞわりと嫌な予感と共に、戸愚呂弟は、書き置きであろうそれを取り上げる。

『 すぐ帰る。
 もし時間がかかって何か困ったことがあったら、幽助と永夜の兄弟に連絡しろ。
   幻海 』

 どういうことだ。
 メモを置いたまま、戸愚呂弟はいてもたってもいられず寝室を出る。

「おい、弟」

 背後から声をかけられて振り向くと、案の定戸愚呂兄が寝乱れた髪のまま、こちらに近づいて来るところだ。
 彼も寝間着のスウェットのまま。

「……幻海は?」

「今気づいたら隣にいなかった。どこに……」

 弟が呻くと、兄が鼻を鳴らす。

「この気配。何か幻海に聞いてるか」

「書き置きがあった。すぐ帰るけど、時間がかかって何かあったら、幽助と永夜の兄弟に連絡しろとさ。どういうことなんだろうねェ」

 兄弟はいつものあの兄を弟の肩に乗せたスタイルで、慌ただしく敷地に出る。
 忽然と消えた幻海の霊気、その一方で奇妙な神気。
 どういうことなのか、悪い予感と共に、兄弟はその気配を辿る。

 裏口から出て、荒行に使うような山中の開けた場所。
 六人衆が修業したような、洞窟の中の堂がある。
 はずが。

「何だこりゃ……どうなってやがる」

 さしものふてぶてしい兄が唸る。
 どこか甘く、すがすがしい空気を感じる。
 豊穣の気配だ。
 だが、肝心の洞窟の中には妙にうねる光が満ち、その向こうから何かの生々しいような気配が伝わってくる。
 同時に、その膨れ上がろうとする色とりどりの神気を、銀色の霊気と神気の縒り合されたような縄型の気が厳重に封印してもいるのだ。
 その縄型の気から伝わって来るのは、明らかによく知る気配。

「幻海……」

 弟が呻く。

「……アイツ、このおかしな空間の向こう側に行っちまったってことか」

 兄が舌打ち。

「……結界破りの術が要るねェ」

 戸愚呂弟は短く息を吐く。
 兄と顔を見合わせる。

「……永夜さんにご足労願うしかないねェ。幽助にも連絡しないと」

「……無理やり破ることもできそうだが、そりゃまずいような気がするよな。幻海がわざわざこんなに厳重に封印してやがるんだからな」

 流石に兄も慎重になる奇怪な気配を、この空間は放っている。
 この向こうの世界は。
 嫌な気配、地獄の類の気配ではない。
 むしろすがすがしく輝かしいのだが、妙な違和感を拭えないのが引っ掛かるのだ。

 ここは「専門家」の判断を仰ぐしかない。
 戸愚呂兄弟は見解を一致させ、そのまま電話のある幻海の寺へと戻っていったのだ。



◆ ◇

「なるほど、状況はわかりました」

 それから30分とせず。
 永夜の姿は、幻海の寺の客間の座卓前にある。
 隣に幽助。
 いつもだったら幻海が座っている場所に、戸愚呂弟と戸愚呂兄が並んでいる。

「幻海師範が向かわれた場所を特定する前に……こちらをご覧ください。テレビお借りしますね」

 永夜が、朝のニュース番組のチャンネルを合わせる。
 地元のニュースが飛び込んでくる。

『ここ、F漁港では、旬のスズキの水揚げが行われています。予測では今年の漁獲量は厳しい見通しでしたが、ごらんください、この分量!! なんと例年の三倍以上、あまりに獲れるので漁を切り上げて引き返してきたとのことです!!』

 サマースーツの女性リポーターが背後で次々漁船から降ろされる魚を指し示す。
 手前でその管理をしている、漁船の船長らしき年配男性にカメラとマイクが寄る。

『いやいや、ビックリしたよ!! 今年は獲れねえって言うからさあ。でも獲らない訳にもいかねえってんで、仕方なく漁に出たんだよなあ。そしたら、あっという間にいつもの年の何倍も獲れてさ。このままじゃ魚の重みで船が沈むから、仕方なく途中で漁を切り上げて引き返して来たよ!!』

嬉しいのと困惑したのと半々の表情で笑う船長に礼を告げ、リポーターはこの漁獲量が毎日続くようでは、値崩れが……といった予測を続ける。

 幽助が、怪訝そうな顔で永夜を振り向く。

「なあ、これがどうしたんだよ? ばあさんがいなくなったのと、なんか関係あんのか?」

 永夜は、幽助ばかりか戸愚呂兄弟のもの問いたげな視線を受けながら、更にチャンネルを回す。
 今度は、地元山側、果樹園でのリポートだ。
 夏のはじめに雹が降り、今年は果実の収穫量は期待できない、と言われていたことを、リポーターは告げる。
 しかし、画面の中には、枝が折れそうなほど、ビッシリと実っている桃の映像。
 何でも、昨日の朝起きて果樹園を見回っていると、ぽつぽつとしか実っていなかった桃が、いつの間にか数倍に増えていた、という怪奇現象を、その果樹園の持ち主が告白する。
 言われてみれば、白い紙がかかっている果実はわずか、後はまるでその後にくっつけられたかのように、丸々と大きな桃が鈴なりのように実っている。
 確かに奇妙である。
「昨日まで存在していなかった果実が、花も咲かないまま一夜にして出現していた」ということなのだから。

「なんだ、気味悪ぃ話だな。果物が盗まれる話は聞くが、逆に増えた? この妙な話と幻海と、なんか関係あるのか?」

 戸愚呂兄が珍しく困惑顔で、永夜に視線を向ける。

「……お寺の敷地に開いた異界との門。その影響にございますよ。あの世界は、この世界、人間界に、こういう効果ももたらす性質のものなのでございます」

 永夜の縹色の目は、相変わらず凪いでいるように見えるが、その底に嵐を隠している。
 戸愚呂弟は、サングラスを外した鋭い目で、永夜を見据える。

「もったいぶっていないで、教えて欲しいね、永夜さん。あいつは、あの妙な異界に呼ばれたってことなのかねェ?」

 と。

「あ、わり。蔵馬からだ……おう」

 幽助が、スマホに出る。

「……おい」

 幽助が、思わず一同を見回す。

「……おかしな生き物が人間を襲ってるって……!?」
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