妖狐夜話
「案ずるな、娘。必ず助ける」
不意に横から声をかけられ、深花(みはな)は顔を上げてそちらを見る。
彼女がいるのは、由比ガ浜の家に運ばれる途中の輿の上だ。
三方には御簾が垂れていてうっすら周囲の風景は見える。
しずしずと運ばれる輿、周囲には侍女や父の臣下の武士が控えて輿と同じ歩調で進んでいるが、その美しい男は、今の今まで周囲にいなかったはずである。
なにせ――その男は人間ではないのが明白である。
輿の上に肩から上が出る長身であるが、髪の毛は冬の月のような銀色で、その長い髪の上には、ぴんと尖った大きな狐耳が突き出しているのだ。
深花は息を呑む。
思わず御簾をまくり上げて間近で見たいと願ってしまうような美貌であるが、その美貌も妖怪ゆえなのかと思うと、心底震えが這い上ってくる。
この人が、今日の儀式で私を食べる妖怪なんだろうか。
最早諦めの境地で、深花はぼんやり彼を見詰めるばかり。
「しっかりしろ。俺は妖狐族の蔵馬という者だ。ある法師の使い魔だ。お前を助けに来た」
いきなりそう告げられ、深花は一瞬信じられずに息を吸うのも忘れる。
法師?
使い魔??
「あまりこちらを見るな。術で俺たちの姿はお前以外には見えないが、お前がおかしな行動をすれば感付かれる」
深花は素早い警告の言葉に、はっとして首の向きを正面に戻す。
うつむきがちにしている視線だけ左側に送り、その妖狐の蔵馬とかいう妖怪を視界に捉え続け――ふと、妙なことに気付く。
この男は、今「俺たち」と言わなかったか?
「その者の申し上げる通りにございます、深花姫様。必ずお助けいたしますゆえ、どうぞお気をしっかりお持ちください」
不意に反対側の輿の右側から、別の男の声が聞こえて、深花は反射的にそちらに顔を向けてしまう。
そこに、人間だが見慣れぬ男がいたのだ。
上等な淡い金色の直垂は、自分と同じくらいに身分のある武家の貴公子のように見えるが、ふうわり漂う香は、覚えがある。
密教の法師特有の荘厳で甘いもの。
御簾越しでもわかる蒼白な顔色、つやつやした黒髪をたぶさにまとめた若い男である。
「わたくしは真言の法師で、無明聖と号しております。さるお方の命により、御父上の須佐盛様の手から、深花姫様、あなたの御身柄をお助けに参りました。ご安心なさってくださいませ」
深花は思わず泣き伏してしまいそうなほど安堵する。
涙はにじんだが、どうにか嗚咽を洩らすことはこらえる。
ここで不審がられては、この人たちに助けてもらえなくなる。
「……お声を出してはなりませぬ。今しばしの辛抱にございます。由比ガ浜のお宅で、儀式が始まりましたら、私の使い魔のその狐、蔵馬が乱入いたします。儀式をぶち壊し、あなた様をお助けする算段にございます」
なるほど、使い魔の妖怪を使って、父の儀式をぶち壊すのか。
深花にはその理路が理解できる。
現執権の従兄弟の中でも権勢あらたかな父に、どの身分であろうと人間が突っかかったりしたら、かなり面倒なことになるであろう。
妖怪にやられた、ということにすれば、この法師も、彼に命を下した有難いどなたかも無事。
もう駄目だというぎりぎりになって、こんな救いの手があるとは。
朝晩経文を読む程度のことでも、功徳はあったのだろうか。
「その蔵馬めが、見せかけの上だけであなた様を浚いますので、抵抗なさらず大人しくなさっていてくださいませ。その後の御父上やご臣下の方々は、こちらで引き受けますゆえ」
妖狐蔵馬という名も、無明聖の名も、この鎌倉で、噂に名高いもの。
まさか自分を救いに来てくれるとは。
「今後のことも心配するな、女。その極めて狡賢い法師が、考えてくれているそうだ」
妖狐蔵馬がくつくつ笑い、輿の反対側にあごをしゃくる。
無明聖が、顔をしかめたのが、御簾越しでも深花に見て取れる。
「どの口で仰っているのですかね、狐さん」
妖狐蔵馬がけたけた笑う。
やがて、風の香りの中に潮の匂いを強く感じるようになり、間もなく深花姫の輿と須佐盛の輿が、臣下の群れごと、海と浜の見える、庭に松の大木のある家に吸い込まれる。
その頃には、陽は傾き、蜜色の光がその人気のない家を満たす。
蔵馬と無明聖は、相変わらず少し離れて深花姫を護るように、彼女の側に控える。
深花姫は、板の間に円座を出されただけの部屋に、侍女もなく押し込められている。
蔵馬と無明聖は、その部屋に入り込み、さりげなく周囲を警戒する。
囚われの姫君の左に座る蔵馬が、右に座る無明聖に報告を投げる。
「ふむ。ざっと見てきたが、下見してきた時と何か変わっているものはないな。手筈通りに儀式をぶち壊し、この娘を連れ出せるだろう。ただ……」
蔵馬が言うと、深花が深い安堵の息をつく。
無明聖は、かすかに首をかしげる。
「ただ、何か気になることでも?」
蔵馬がうなずく。
「儀式が行われるのであろう広間を見てきたが、妙なものがあったな」
「妙なものというと?」
無明聖が水を向ける。
「恐らく、何かの種なのだろうと思うが、俺の知っている魔界植物のものではない。魔界のものですらない、何かの『種』だ」
蔵馬の言葉に、無明聖が眉根を寄せる。
「あなたも知らないような種類の種ですか。恐らく、儀式では深花姫様に、その種を植え付けて、体を食い破らせるとか、そんなことを想定していたのでしょうが」
深花が、ひいっとかすかな悲鳴を上げる。
無明聖が顔を寄せてやさしく囁きかける。
「大丈夫です。この蔵馬が、そんなことになる前にあなた様を連れ出す予定でございます」
そう断言されると、深花姫の呼吸が落ち着く。
「もう、御父上はあなた様がご存知の御父上ではございません。少し手荒な対処が必要になるかも知れませんが、もう御父上はいないとお思いになって、ご自身のご安全のことだけをお考えください」
聡明な深花姫は、その穏やかな言い回しの示す意味を汲み取る。
哀しそうな顔でうなずき、顔を伏せる。
「しかし、魔界のですらない植物。興味はあるが、蒐集する訳にもいかんな。そもそも、処理をどうしたものか」
蔵馬が形の良い顎をつまんでそんな疑問を投げかけると、無明聖はいっそう顔を引き締めて冷たく断言する。
「その種子は恐らく、『呼ばれざる者』の属する神界からもたらされた穢れた種子。あなたでも支配は難しいでしょうね。処分は私がいたしますので、あなたは当初の打ち合わせ通りの手筈で」
「ふむ」
蔵馬は鼻を鳴らす。
「少し惜しい気がしないでもないが、使えないなら仕方ない。さて……そろそろ、時間なのではないか?」
蔵馬がいつの間にか昏くなった部屋を見回す。
板戸の隙間から、青ざめた月光が、静かに差し込む時間帯となっていた。
呪われた夜は、始まろうとしている。
不意に横から声をかけられ、深花(みはな)は顔を上げてそちらを見る。
彼女がいるのは、由比ガ浜の家に運ばれる途中の輿の上だ。
三方には御簾が垂れていてうっすら周囲の風景は見える。
しずしずと運ばれる輿、周囲には侍女や父の臣下の武士が控えて輿と同じ歩調で進んでいるが、その美しい男は、今の今まで周囲にいなかったはずである。
なにせ――その男は人間ではないのが明白である。
輿の上に肩から上が出る長身であるが、髪の毛は冬の月のような銀色で、その長い髪の上には、ぴんと尖った大きな狐耳が突き出しているのだ。
深花は息を呑む。
思わず御簾をまくり上げて間近で見たいと願ってしまうような美貌であるが、その美貌も妖怪ゆえなのかと思うと、心底震えが這い上ってくる。
この人が、今日の儀式で私を食べる妖怪なんだろうか。
最早諦めの境地で、深花はぼんやり彼を見詰めるばかり。
「しっかりしろ。俺は妖狐族の蔵馬という者だ。ある法師の使い魔だ。お前を助けに来た」
いきなりそう告げられ、深花は一瞬信じられずに息を吸うのも忘れる。
法師?
使い魔??
「あまりこちらを見るな。術で俺たちの姿はお前以外には見えないが、お前がおかしな行動をすれば感付かれる」
深花は素早い警告の言葉に、はっとして首の向きを正面に戻す。
うつむきがちにしている視線だけ左側に送り、その妖狐の蔵馬とかいう妖怪を視界に捉え続け――ふと、妙なことに気付く。
この男は、今「俺たち」と言わなかったか?
「その者の申し上げる通りにございます、深花姫様。必ずお助けいたしますゆえ、どうぞお気をしっかりお持ちください」
不意に反対側の輿の右側から、別の男の声が聞こえて、深花は反射的にそちらに顔を向けてしまう。
そこに、人間だが見慣れぬ男がいたのだ。
上等な淡い金色の直垂は、自分と同じくらいに身分のある武家の貴公子のように見えるが、ふうわり漂う香は、覚えがある。
密教の法師特有の荘厳で甘いもの。
御簾越しでもわかる蒼白な顔色、つやつやした黒髪をたぶさにまとめた若い男である。
「わたくしは真言の法師で、無明聖と号しております。さるお方の命により、御父上の須佐盛様の手から、深花姫様、あなたの御身柄をお助けに参りました。ご安心なさってくださいませ」
深花は思わず泣き伏してしまいそうなほど安堵する。
涙はにじんだが、どうにか嗚咽を洩らすことはこらえる。
ここで不審がられては、この人たちに助けてもらえなくなる。
「……お声を出してはなりませぬ。今しばしの辛抱にございます。由比ガ浜のお宅で、儀式が始まりましたら、私の使い魔のその狐、蔵馬が乱入いたします。儀式をぶち壊し、あなた様をお助けする算段にございます」
なるほど、使い魔の妖怪を使って、父の儀式をぶち壊すのか。
深花にはその理路が理解できる。
現執権の従兄弟の中でも権勢あらたかな父に、どの身分であろうと人間が突っかかったりしたら、かなり面倒なことになるであろう。
妖怪にやられた、ということにすれば、この法師も、彼に命を下した有難いどなたかも無事。
もう駄目だというぎりぎりになって、こんな救いの手があるとは。
朝晩経文を読む程度のことでも、功徳はあったのだろうか。
「その蔵馬めが、見せかけの上だけであなた様を浚いますので、抵抗なさらず大人しくなさっていてくださいませ。その後の御父上やご臣下の方々は、こちらで引き受けますゆえ」
妖狐蔵馬という名も、無明聖の名も、この鎌倉で、噂に名高いもの。
まさか自分を救いに来てくれるとは。
「今後のことも心配するな、女。その極めて狡賢い法師が、考えてくれているそうだ」
妖狐蔵馬がくつくつ笑い、輿の反対側にあごをしゃくる。
無明聖が、顔をしかめたのが、御簾越しでも深花に見て取れる。
「どの口で仰っているのですかね、狐さん」
妖狐蔵馬がけたけた笑う。
やがて、風の香りの中に潮の匂いを強く感じるようになり、間もなく深花姫の輿と須佐盛の輿が、臣下の群れごと、海と浜の見える、庭に松の大木のある家に吸い込まれる。
その頃には、陽は傾き、蜜色の光がその人気のない家を満たす。
蔵馬と無明聖は、相変わらず少し離れて深花姫を護るように、彼女の側に控える。
深花姫は、板の間に円座を出されただけの部屋に、侍女もなく押し込められている。
蔵馬と無明聖は、その部屋に入り込み、さりげなく周囲を警戒する。
囚われの姫君の左に座る蔵馬が、右に座る無明聖に報告を投げる。
「ふむ。ざっと見てきたが、下見してきた時と何か変わっているものはないな。手筈通りに儀式をぶち壊し、この娘を連れ出せるだろう。ただ……」
蔵馬が言うと、深花が深い安堵の息をつく。
無明聖は、かすかに首をかしげる。
「ただ、何か気になることでも?」
蔵馬がうなずく。
「儀式が行われるのであろう広間を見てきたが、妙なものがあったな」
「妙なものというと?」
無明聖が水を向ける。
「恐らく、何かの種なのだろうと思うが、俺の知っている魔界植物のものではない。魔界のものですらない、何かの『種』だ」
蔵馬の言葉に、無明聖が眉根を寄せる。
「あなたも知らないような種類の種ですか。恐らく、儀式では深花姫様に、その種を植え付けて、体を食い破らせるとか、そんなことを想定していたのでしょうが」
深花が、ひいっとかすかな悲鳴を上げる。
無明聖が顔を寄せてやさしく囁きかける。
「大丈夫です。この蔵馬が、そんなことになる前にあなた様を連れ出す予定でございます」
そう断言されると、深花姫の呼吸が落ち着く。
「もう、御父上はあなた様がご存知の御父上ではございません。少し手荒な対処が必要になるかも知れませんが、もう御父上はいないとお思いになって、ご自身のご安全のことだけをお考えください」
聡明な深花姫は、その穏やかな言い回しの示す意味を汲み取る。
哀しそうな顔でうなずき、顔を伏せる。
「しかし、魔界のですらない植物。興味はあるが、蒐集する訳にもいかんな。そもそも、処理をどうしたものか」
蔵馬が形の良い顎をつまんでそんな疑問を投げかけると、無明聖はいっそう顔を引き締めて冷たく断言する。
「その種子は恐らく、『呼ばれざる者』の属する神界からもたらされた穢れた種子。あなたでも支配は難しいでしょうね。処分は私がいたしますので、あなたは当初の打ち合わせ通りの手筈で」
「ふむ」
蔵馬は鼻を鳴らす。
「少し惜しい気がしないでもないが、使えないなら仕方ない。さて……そろそろ、時間なのではないか?」
蔵馬がいつの間にか昏くなった部屋を見回す。
板戸の隙間から、青ざめた月光が、静かに差し込む時間帯となっていた。
呪われた夜は、始まろうとしている。