妖狐夜話

「マジかよ……」

 さしもの幽助が青ざめている。

「兄貴、蔵馬が死ぬかも知れないくらいに責め苛んだのかよ。鬼畜だな……」

 かつて冷酷無比な術師「無明聖」と呼ばれていた永夜は、重めの溜息を洩らす。

「当時は私も若かった。若すぎた。魔族は人間の敵だと、単純に思い込んでいて、どんな風にしてもいいのだと、そう考えていた。時代状況的に、人間と魔族の対立が極めて過酷だったこともある。言い訳じみるが、やるかやられるかでしかなかったのだよ」

 幽助は哀し気にまつ毛を伏せる兄を見ながら、自分がかつて戦ってきた妖怪たちを思う。
 結界が敷設され、かつてに比べれば人間と妖怪の対立がそう大事にならない場合が多い現代でさえ、厳しい状況は存在した。
 悲惨な時代に生きた兄を、平穏な時代に生きる自分が否定できるようなものではないと、幽助にだって理解できる。
 しかし、仲間が自分の兄弟によって命に関わるくらいいたぶられたという事実は、幽助にとってそういう時代だったということで割り切れるようなものではない。
 ふと、永夜が続ける。

「……それに、当時の蔵馬さんは、とにかく恐ろしい狂暴な妖怪だった。三竦みの方々のような人食いではなかったのが不幸中の幸いではあったが、だからといって、人間の生命に危害を加える機会が少ないという訳ではない。……いや、だからこそ、私の仕事を手伝ってもらうのにうってつけだった訳だが」

 幽助は目を瞬かせる。

「えっと、そりゃどういうことなんだ? 狂暴な妖怪の方が良かったってことなのか?」

「ありていに言えば、そういうことだよ。あの仕事は、狂暴で冷酷であるほど、そして、その悪名が広まっているほど、良かったのだよ」

 永夜が断言し、ますます幽助は困惑する。
 七百年を生きた術師は、再び語り出す。


 ◇ ◆ ◇

「あの男が、目的の須佐盛(すさもり)です。よくよく覚えて、確実に見分けられるようになってください」

 花咲く庭で、無明聖が傍らの妖狐蔵馬に囁く。
 蔵馬は、うむ、とうなずき、その庭に面した座敷に座っている、がっちりした中年の男を見やる。

 いかにも身分の髙い武士といった、上等な直垂の男は、上背もあり、衣服の上からでも筋肉質なのが認識でき、わずかな動作からも鍛えているのがうかがえる。
 だが、それらは全て「普通の人間としては」という但し書きが付くようなものだ。
 高位の妖怪に対応できるような鍛え方ではないし、あくまで「人間基準で頑丈な部類に入る」程度のもの。
 要するに、蔵馬のような水準の妖怪からすると、敵ではない、はずだが。

「今の執権の、何人かいる従兄弟の一人ですね、あの須佐盛様は」

 無明聖が、淡々と説明する。
 目標を見据える縹色の瞳は水面のように凪いでいて、感情は読み取れぬ。

 手の込んだ庭にも、須佐盛が鎮座する屋敷の内部にも数多くの人がいるのだが、何故か誰も闖入者である蔵馬と無明聖に気付かない。
 術の力が、二人を覆っているからである。
「人の認識を歪めて気付かれないようにする」、摩利支天の呪法は、彼ら二人の姿を、まるで透明になったかのように、この屋敷の誰からも認識されなくしている。
 単に透明になったのと違い、周囲の認知能力に対して働きかけているので、霊気や妖気、匂いや音といったものも認識されない。
 番犬もいるし、一人くらいは霊感の鋭い人間もいるはずだが、全く騒ぎにはなっていないのである。

「なるほど、確かにこやつからは妙な気配がするな。ぞっとする冷たい泥でも塗りたくられたような不快感がある」

 蔵馬は、少し須佐盛に近付いて、しげしげと彼の髭面を観察する。

「これが、話に聞く邪神の加護というやつなのか?」

 蔵馬は、ふむ、と鼻を鳴らす。

 無明聖に、「質の悪い邪神に魅入られ、許されざる儀式を行おうとしている男を、一緒に止めてほしい」と要請、いや強制されたのは、昨夜のうちのこと。
 どういうことかと更に突っ込んで訊くと、最近都では、裏でそういう邪神信仰が流行しているのだと告げられたのだ。

『その邪神というのは、太古の昔から存在しています。仏法のうちに分類される魔王ではない。あらゆる秩序の外にあり、しかし、常にあらゆる存在を脅かし続ける形なきもの。名前すらも呼ばれないのです』

 無明聖が、蒼白な顔をますます青ざめさせ強張らせて説明したのが思い出される。

『気付いているでしょう? 親が子を切り刻んで殺す事件が頻発していることを。浚われて二度と出てこない女性が増加していることも。魔族の仕業だけではない。疫病のように広がる、邪神信仰の証拠なのです』

 どういうことだ、と、蔵馬は尋ねる。
 怪しげな淫祀が流行っている、という噂は聞いたが。

『その邪神の名はない。ただ呼ばれざる者とだけ呼ばれる。そやつの教義は、基本的にただ一つ……己の我欲を実現するために、必ず生贄を見つけて差し出せ。そうすれば願いを叶えよう。その単純で力強く、効率的に邪悪な教えが、貴賤を問わず人心に広がっている』

 我らが密教をもってしても根絶の難しい、恐ろしい邪教です。
 須佐盛も、それにハマッたということ。
 ただ問題は。

「……この男が、当代の執権の従兄弟に当たる、と。お前ら人間にとって、問題はそれか」

 蔵馬は、須佐盛のすぐ下の軒下に立ち、彼を観察する。

「言われてみれば、執権の面影があるような気がするな。本人を見たことがあるが、確かに血縁を感じる」

 蔵馬がちらと無明聖を振り向くと、彼は溜息を落とす。

「現世、この国に生きている以上、世俗の権威を無視できませんからね。少なくとも我ら人間は。そうなると、実際その男の息の根を止めるのは、あなた方のような妖怪に頼むしかない訳です」

 蔵馬はその言葉を受けて、ふむ、と鼻を鳴らす。
 瞬時に手の中に薔薇棘鞭刃。

「……今、やってもいいか?」

「いえ、いけません。さっきも説明した通り、今夜、その男は由比ガ浜に近い空き家で邪神に自分の娘を捧げる儀式を行うはずです。その時に、周囲の邪教徒の目の前で、その男を殺してください」

 そうすれば、その男は「妖怪に殺された」ということになり、誰も背後を疑わなくなります。
 あ、その時に、生贄にされそうになったお姫様を「浚う」のを忘れないでくださいね。

「なるほど」

 くつくつと、蔵馬は笑う。
 なかなか斬新な事態に巻き込まれたものだ。

「狂暴な妖狐によって、執権の従兄弟の美しい娘が浚われ、執権の従兄弟本人はその時殺された、という筋書きか。ありがちだが、まっとうだな」

 似たような事態など、今のこの時代、毎日どこかで起こっているだろう。
 誰も不審に思わないくらいには「自然」である。

「あてにしてますよ、狐さん」

 穏やかに頼るに見せかけて、事実上命令である言葉を発し、無明聖が笑いかける。
 蔵馬は、薔薇棘鞭刃を一閃させ、無明聖の立っている側のレンギョウの茂みを一撃する。
 花びらが散り、一枝折られた黄色のたおやかな花が、ふわりふわりと、蔵馬の頭上に降って来る。
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