妖狐夜話
蔵馬は、炎の縄に縛り上げられ炙られる苦痛に耐えながら目の前の青年を見据える。
縄は今や虚空から伸びて、見えないその先が巨人の両手にあるかのように、八方から蔵馬を縛り上げ、宙空に吊り下げている。
目の前の青年はごく若い。
まだ二十歳になるやならずに見える。
蒼白な肌に、やや癖のある綺麗な黒髪をたぶさにしている。
今宵の月みたいな淡い金色の直垂は、高位の武家の貴公子を思わせるが、蔵馬はそいつが若武者ではなく僧侶、しかも真言の僧侶だと知っている。
美しい姿の若者ではあるが。
しかし、それはまさに、蔵馬たちのような妖怪にとっては「死」を意味する表象である。
「これはこれは。もしや噂の無明聖(むみょうひじり)か? お会いできて誠に光栄だな」
何気ない風を装い、蔵馬は炎の縄から抜け出る隙を探すが、全くどこに付け込んでほぐしていいかがわからない。
魔界にはない密教の修法は、蔵馬ほどの力のある妖怪をもってしても、解呪のきっかけを与えない強固な編み上がりだ。
このままではじりじり焼け死ぬしかない。
蔵馬は、脂汗を流しながらも、どこかに隙はないかと油断なくまさぐる。
「そういうあなたは、世に名高い盗賊、妖狐蔵馬ですね、狐さん。なるほど、美しい方だ。あなたみたいな人のことをこんな風に苛まなくてはならないとは、心が痛みますよ」
無明聖と呼ばれた術師は、右手の親指と人差し指で輪を作り、縛り上げられて、神聖な不動明王の炎に焼かれている蔵馬の左肩を、ぴしり、と弾く。
跳ね上がるような激痛が走り、蔵馬は身をよじるが、当然炎の縄は緩むこともなく、ますます苦痛が重なっただけである。
「おやおや。大丈夫ですか、狐さん。訊きたいこともあるんで、もう少し頑張ってくださいね」
妖怪の天敵と謳われるその男がくすくす笑う。
蔵馬は暗澹たる思いに囚われる。
この男が都をしばし留守にするというから、寺院への襲撃を決行したというのに、どうもそれは偽情報だったようだ。
この状況からして、完全にハメられたとしか思えない。
「……都を留守にしていいると聞いたのだがな」
答えはわかっているが、蔵馬はそんな風に投げかける。
「そういう情報を流して出かけるフリをすれば、あなたみたいな大物がかかりますからね。あなたみたいな有名人が、いつまでも都の周辺に腰を落ち着けるべきではありませんでしたね」
よっぽど、この寺院にあった寺宝が欲しかったんですか?
無明聖はくすくす笑う。
「残念でしたね。あなたみたいな人に狙われているとわかっている以上、とっくに別な場所に移してありますよ」
蔵馬はその言葉を聞いて大きく息を吐き出す。
「油断も隙もない男だ。お前は、見た目通りの年の小僧だろう? その年で、俺みたいな古狐を騙すとはな。末恐ろしい。どの道、良い死に方はせんぞ」
戯言を投げかけながら、蔵馬は術の緩みがないか探すのを諦めない。
先ほどまでは境内のあちこちにある魔界植物を操って、この恐るべき聖を行動不能にしようかと妖力を回していたが、一瞬で魔界植物は枯れはててしまったようだ。
新しい魔界植物を生じさせようにも、この神聖な炎の縄は蔵馬の身体的自由ばかりか妖力をも完全に封じており、ほんの小さな種一つ発芽させられそうにない。
要するに、蔵馬は絶体絶命。
今までの人生では有り得なかったほど、無力にさせられているということ。
「無明聖。真言はこの都では新仏教に圧されていると聞くが、お前のような奴がいるところを見ると、そうでもないのか。妖怪の天敵、お前のお陰で、この都に近付く妖怪たちは、他の何倍も死の危険に曝されているそうだな」
なるほど、こういう訳だ。
俺としたことが。
蔵馬はちらりと縛り上げられて自分の体に目を落とす。
白魔装束が焦げて変色している。
恐らく、号令一つで縄から炎を噴き上げさせて自分を焼き殺せるはずの無明聖がそれをしないのには、何か理由がある。
隙が突けるかも知れない。
「助かりたいですか? そうでしょうね、さっきから無駄だと頭ではわかっているはずなのに、逃れようとしておられますね。可愛らしい」
くすくす更に笑いながら、恐るべき術師・無明聖は、左の手指で、蔵馬の右胸を軽く突く。
またもや激痛が走り、蔵馬は思わず悲鳴を上げて身をよじる。
まずい。
特に何をされなくても、このままの状態を維持されたら半時ももたないだろう。
「……俺に、何か言いたいことがあるのか、人間の小僧。何故殺さぬ?」
蔵馬はいよいよ単刀直入に尋ねる。
無明聖がにこりと端正な顔で笑う。
「助かりたいですよね? 別に助けてもいいんですが、それには条件があるんです」
「……言ってみろ。お前ほど質の悪い術師が妖狐の力を欲するとは、どういう状況なのか知りたいものだな」
蔵馬がそう水を向けると、無明聖がにわかにいずまいを正す。
「私の仕事を手伝っていただきたい。汚れ仕事で、かつ、非常に重要な、重大な仕事です」
蔵馬は目を瞬かせる。
「どういう……ことだ? 仕事の内容次第だが」
「あなたにそんな選択の余地がありますか? 助かりたいんじゃないですか?」
横柄に突き付けられて、蔵馬は苦笑する。
妖力が神聖な炎で燃やし尽くされ、体から力が抜けて行こうとする。
予想より消耗が早い。
まずい。
「……いいだろう。話を聞かせろ」
「そう来なくてはね」
無明聖が、口の中で真言を唱える。
「オン・マカキャラヤ・ソワカ」
蔵馬の顔の前にかざした無明聖の手から、輝く闇とでもいうべき球体が飛び出て、蔵馬の胸のあたりに吸い込まれる。
同時に、今まであれだけ隙なく巻き付いていた不動明王の炎の縄が、ぱらりと外れて消え、蔵馬は床に投げ出される。
「おやおや。大丈夫ですか」
無明聖が手をかざして、また別な真言を唱える。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
見る間に、蔵馬の全身から痛みが引いていく。
一瞬で、あれだけ流れ出していた妖力も、半日眠りこけてから起き上がった時みたいに充実している。
しかし。
「……俺に何をした? 小僧」
蔵馬は、妖気は回復したが、目の前の男の攻撃に備えようとしても妖力が発動しないことに気付く。
「あなたにちょっとした術をかけました。我が加持仏大黒天の名において、あなたを私の、一時的な使い魔に仕立てたのです。もう、あなたは仕事が終わるまで、私には逆らえません」
蔵馬が思わず無明聖を睨む。
無明聖は笑みを深くし、
「ま、これから仲良くしましょう、狐さん。実際、我らはそれしかありませんからね」
額を指で弾かれて、蔵馬は、想定よりずっと厄介な事態になったことを認識したのだった。
縄は今や虚空から伸びて、見えないその先が巨人の両手にあるかのように、八方から蔵馬を縛り上げ、宙空に吊り下げている。
目の前の青年はごく若い。
まだ二十歳になるやならずに見える。
蒼白な肌に、やや癖のある綺麗な黒髪をたぶさにしている。
今宵の月みたいな淡い金色の直垂は、高位の武家の貴公子を思わせるが、蔵馬はそいつが若武者ではなく僧侶、しかも真言の僧侶だと知っている。
美しい姿の若者ではあるが。
しかし、それはまさに、蔵馬たちのような妖怪にとっては「死」を意味する表象である。
「これはこれは。もしや噂の無明聖(むみょうひじり)か? お会いできて誠に光栄だな」
何気ない風を装い、蔵馬は炎の縄から抜け出る隙を探すが、全くどこに付け込んでほぐしていいかがわからない。
魔界にはない密教の修法は、蔵馬ほどの力のある妖怪をもってしても、解呪のきっかけを与えない強固な編み上がりだ。
このままではじりじり焼け死ぬしかない。
蔵馬は、脂汗を流しながらも、どこかに隙はないかと油断なくまさぐる。
「そういうあなたは、世に名高い盗賊、妖狐蔵馬ですね、狐さん。なるほど、美しい方だ。あなたみたいな人のことをこんな風に苛まなくてはならないとは、心が痛みますよ」
無明聖と呼ばれた術師は、右手の親指と人差し指で輪を作り、縛り上げられて、神聖な不動明王の炎に焼かれている蔵馬の左肩を、ぴしり、と弾く。
跳ね上がるような激痛が走り、蔵馬は身をよじるが、当然炎の縄は緩むこともなく、ますます苦痛が重なっただけである。
「おやおや。大丈夫ですか、狐さん。訊きたいこともあるんで、もう少し頑張ってくださいね」
妖怪の天敵と謳われるその男がくすくす笑う。
蔵馬は暗澹たる思いに囚われる。
この男が都をしばし留守にするというから、寺院への襲撃を決行したというのに、どうもそれは偽情報だったようだ。
この状況からして、完全にハメられたとしか思えない。
「……都を留守にしていいると聞いたのだがな」
答えはわかっているが、蔵馬はそんな風に投げかける。
「そういう情報を流して出かけるフリをすれば、あなたみたいな大物がかかりますからね。あなたみたいな有名人が、いつまでも都の周辺に腰を落ち着けるべきではありませんでしたね」
よっぽど、この寺院にあった寺宝が欲しかったんですか?
無明聖はくすくす笑う。
「残念でしたね。あなたみたいな人に狙われているとわかっている以上、とっくに別な場所に移してありますよ」
蔵馬はその言葉を聞いて大きく息を吐き出す。
「油断も隙もない男だ。お前は、見た目通りの年の小僧だろう? その年で、俺みたいな古狐を騙すとはな。末恐ろしい。どの道、良い死に方はせんぞ」
戯言を投げかけながら、蔵馬は術の緩みがないか探すのを諦めない。
先ほどまでは境内のあちこちにある魔界植物を操って、この恐るべき聖を行動不能にしようかと妖力を回していたが、一瞬で魔界植物は枯れはててしまったようだ。
新しい魔界植物を生じさせようにも、この神聖な炎の縄は蔵馬の身体的自由ばかりか妖力をも完全に封じており、ほんの小さな種一つ発芽させられそうにない。
要するに、蔵馬は絶体絶命。
今までの人生では有り得なかったほど、無力にさせられているということ。
「無明聖。真言はこの都では新仏教に圧されていると聞くが、お前のような奴がいるところを見ると、そうでもないのか。妖怪の天敵、お前のお陰で、この都に近付く妖怪たちは、他の何倍も死の危険に曝されているそうだな」
なるほど、こういう訳だ。
俺としたことが。
蔵馬はちらりと縛り上げられて自分の体に目を落とす。
白魔装束が焦げて変色している。
恐らく、号令一つで縄から炎を噴き上げさせて自分を焼き殺せるはずの無明聖がそれをしないのには、何か理由がある。
隙が突けるかも知れない。
「助かりたいですか? そうでしょうね、さっきから無駄だと頭ではわかっているはずなのに、逃れようとしておられますね。可愛らしい」
くすくす更に笑いながら、恐るべき術師・無明聖は、左の手指で、蔵馬の右胸を軽く突く。
またもや激痛が走り、蔵馬は思わず悲鳴を上げて身をよじる。
まずい。
特に何をされなくても、このままの状態を維持されたら半時ももたないだろう。
「……俺に、何か言いたいことがあるのか、人間の小僧。何故殺さぬ?」
蔵馬はいよいよ単刀直入に尋ねる。
無明聖がにこりと端正な顔で笑う。
「助かりたいですよね? 別に助けてもいいんですが、それには条件があるんです」
「……言ってみろ。お前ほど質の悪い術師が妖狐の力を欲するとは、どういう状況なのか知りたいものだな」
蔵馬がそう水を向けると、無明聖がにわかにいずまいを正す。
「私の仕事を手伝っていただきたい。汚れ仕事で、かつ、非常に重要な、重大な仕事です」
蔵馬は目を瞬かせる。
「どういう……ことだ? 仕事の内容次第だが」
「あなたにそんな選択の余地がありますか? 助かりたいんじゃないですか?」
横柄に突き付けられて、蔵馬は苦笑する。
妖力が神聖な炎で燃やし尽くされ、体から力が抜けて行こうとする。
予想より消耗が早い。
まずい。
「……いいだろう。話を聞かせろ」
「そう来なくてはね」
無明聖が、口の中で真言を唱える。
「オン・マカキャラヤ・ソワカ」
蔵馬の顔の前にかざした無明聖の手から、輝く闇とでもいうべき球体が飛び出て、蔵馬の胸のあたりに吸い込まれる。
同時に、今まであれだけ隙なく巻き付いていた不動明王の炎の縄が、ぱらりと外れて消え、蔵馬は床に投げ出される。
「おやおや。大丈夫ですか」
無明聖が手をかざして、また別な真言を唱える。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
見る間に、蔵馬の全身から痛みが引いていく。
一瞬で、あれだけ流れ出していた妖力も、半日眠りこけてから起き上がった時みたいに充実している。
しかし。
「……俺に何をした? 小僧」
蔵馬は、妖気は回復したが、目の前の男の攻撃に備えようとしても妖力が発動しないことに気付く。
「あなたにちょっとした術をかけました。我が加持仏大黒天の名において、あなたを私の、一時的な使い魔に仕立てたのです。もう、あなたは仕事が終わるまで、私には逆らえません」
蔵馬が思わず無明聖を睨む。
無明聖は笑みを深くし、
「ま、これから仲良くしましょう、狐さん。実際、我らはそれしかありませんからね」
額を指で弾かれて、蔵馬は、想定よりずっと厄介な事態になったことを認識したのだった。