妖狐夜話

「ほら幽助。おやつだよ」

「おっ、いちごかあ」

 幽助は目の前に運ばれて来たいちごタルトを見て目を輝かせる。
 雷禅と食脱医師が所用で煙鬼のところへ出かけているため、今日の雷禅家は静かである。
 とはいえ、いつものように頭上で雷は鳴っているのだが、窓を閉めていれば気になるほどではない。
 魔界に来たばかりの頃は、いつも頭の上でごろごろ言っていて落ち着かないと嘆いたものなのだが、人間――も妖怪も半妖も――慣れるものである。

 だが、幽助は今日は雷を話題にするつもりはないのだ。
 折角、家で永夜と二人きりなのだから、訊きたいことがある。

「なあ、兄貴」

 永夜が運んできてくれたロイヤルミルクティーで喉を湿らせながら、幽助は本題を切り出す。

「どうしたんだい? 何か訊きたいことがありそうな顔だね」

 永夜は流石に勘が鋭い。
 幽助はタルトをぱくつきながら続ける。

「ふはまのほほはんらへろはあ」

「蔵馬のことなんだけどさ? 蔵馬さんがどうかしたかな」

「……兄貴って」

 幽助はいちごの香りの強いカスタードクリームを味わうと、改めて口にする。

「蔵馬と、昔組んでいたんだよな?」

 永夜はうなずく。

「ああ、ごく一時的だったけど、組んでいたことは事実だね。彼は有能だった。彼のお陰で、厄介な案件を片付けることができて、どうにか丸く収まったのだよ」

 永夜は、今しがたその案件を片付けたばかりのように、安堵の長い息を洩らす。

「いやあ、あの時はどうしようかと思っていたからね。蔵馬さんにとっては不本意だったと思うんだが、是非とも協力してもらわなければ、あの件はどうにもならなかっただろうからねえ」

「なあ。その話、兄貴の口から詳しく聞かせてくれよ」

 幽助は身を乗り出し、ダイニングキッチンのテーブルの反対側に座る永夜を見据える。
 真剣な目だ。
 永夜はちょっと首をかしげる。

「蔵馬さんには聞かなかったのかな」

「聞いたけどさあ。兄貴の口から、当時の蔵馬ってどうだったかって聞きたいんだよ。蔵馬ってほら、妖狐だった自分を、あんまり俺たちには話したがらないっていうか」

 やなこともあったんだろうな。
 言いづらいこととか。
 でも、この先妖狐に戻る機会増えそうだし、俺、把握しといてやりたいんだよ。

 そんな風に食いついてくる弟を、永夜は微笑み見詰める。
 この言葉に嘘はないのはわかる。
 幽助なりに、はっきりした言葉にならなくても、今後の妖狐とも並存して生きていく「蔵馬」という人物に、何か困難が立ちはだかることを懸念しているのだと、シンプルな言葉の端々から伝わってくる。
 そもそも「妖狐」が本来の蔵馬にも関わらず、その状態の彼は戦闘状態のごく短時間にしか幽助たちの前に姿を現わさない。
 もっと知りたいと幽助が願っても、手を伸ばした時には消えている。
 漠然とした不安や不満を、幽助が溜めている可能性は髙いであろう。

「……わかった。そうだね、どこから話そうか。私が、妖狐だった蔵馬さんを罠にかけて捕まえたところからかな」

 永夜があごをつまんで思い出そうとすると、幽助はますます身を乗り出してくる。

「お、そこから頼むわ。しかし、あの蔵馬をハメるって、兄貴って狡賢かったんだな」

「……他に言い方はないのか君は」


 ◇ ◆ ◇

 ごう、と、風が通り過ぎる。

 人間界の穏やかな夜風だ。
 仏教寺院の境内は、今ひそやかな月明かりに照らし出されて、絵のような端正な美しさを見せる。
 緻密な影に彩られた庭木の葉の重なり。
 鯉が跳ねる庭の池は、弾けた水滴が水晶の欠片のように散る。
 もの問いたげな寺院の破風。

 そんな浮きたつ月夜の庭に立つのは、銀色の妖狐である。
 月光よりもなお清らかな銀の髪と耳、そして尾がちらちら輝く。
 氷柱の破片を思わせる澄んでいるが冷たい瞳は、それであるからこそ美しいものではある。
 端正過ぎるくらいに端正な目鼻立ちは、さながら月の光が見せる幻であるかのようだ。

 妖狐の足元には、若い僧兵らしき男たちが数人倒れている。
 死んではいないが、心得のない者には死んだように思えるかも知れないくらいに深い眠りに陥っているのは明白だ。
 蔵馬にかかれば、申し訳程度の術と武術しか身に着けていない僧兵なんぞを大人しくさせるのは、赤子の手をひねるよりも容易い。
 別に殺しても良かったが、ものごとは密かに行うべしだ。
 この寺院とは宗派が違うものの、同じ仏教者、何千倍も厄介な真言の法師がこの都にはいるはずだ。
 露骨に死人を出すのはまずい。

 蔵馬は、邪魔者のいなくなった寺院の回廊に駆け上がり、そのまま奥へと進む。
 この鎌倉の他の寺院に比べればさほど大きい訳でもないが、造りはしっかりしているし、本来なら警備も厳重であるはずだ。
 その理由が、本堂には待っているはずだ。

 灯篭の灯された回廊を抜け、銀髪の妖狐蔵馬は本堂に上がり込む。
 夜半のお勤めをこなしていたのであろう僧侶が本堂の床で数人眠りこけている。
 御仏の加護も、目の前の壮麗な阿弥陀如来の仏像も、蔵馬の魔界植物の威力の前にはなにほどのこともない。
 蔵馬はおかしくなって笑う。
 この人間たちは、ただでさえ短い一生を何に捧げているのかと思えば、流石に同情の笑いがこみ上げてくるというものだ。
 壮大で華麗な無駄だ。
 頭上で輝くきらびやかな帝釈網。

 輝く阿弥陀仏の前に、さほど大きくない厨子があり、その扉はきつく閉まっている。
 蔵馬は、屈んで覗き込む。
 幾つかの文字が描かれた扉は、仕掛け扉となっている。
 見れば簡単な……

 その途端。

 妖狐の足元から、燃える夕日よりもなお赫々とした紅蓮の輝きが吹き上がる。
 一瞬、何が起こったのか判断がつかない。
 その輝きが、不動明王を示す梵字を描き、そこから燃え盛る縄がいつの間にか飛び出してきて、一瞬で蔵馬を縛り上げる。

「くうっ!!」

 さしもの蔵馬が苦痛の呻きを洩らす。

 梵字。
 行者の守護者不動明王の術法。
 こんな罠を仕掛けられるのは。

 燃える縄でぎりぎりと締め上げられる苦痛に耐えながら、蔵馬は顔を上げる。
 いつのまにか、背後には人影が立っている。
 漂う護摩特有の香の香りに、蔵馬は自分がこいつに罠にかけられたのだということを認識したのだった。
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