記憶の水

「ここにな……昔、来たことがある」

 軀は、目の前に広がる、霧に包まれた湖を見渡す。

「『追憶の湖』。そう、呼ぶそうだ」

 飛影は軀と並び、しんとしたその湖面に視線を投げる。
 背後少し離れて、百足が停泊している。
 他の軀軍戦士たちは、百足の内部で、忙しくさっき処理した事件の報告書その他、事後業務に追われているだろう。
 飛影は、軀に呼び出されてこの湖のほとりで、二人だけ。

「随分とまた、感傷的な名前だな」

 湖の名前を聞いた飛影の感想はそんなところだ。
 今日は休暇のはずだったのに。
 早く百足の軀の部屋に戻りたい。

「雰囲気で付けられた名前じゃねえらしいぜ。この湖の水を覗き込むと、覗いた奴の記憶が反映された映像が見えるんだそうだ」

「!?」

 飛影は怪訝な顔で軀を振り返る。
 どういうことだ。

「どういう仕組みかは知らねえが、覗いた奴の、普段は精神の奥底に折りたたまれているような記憶が、水面に映って見えるらしい。……ここに最初に来たのは、あいつから逃げたすぐ後だったからな。どうなったかは、まあ、想像できるだろ」

 軀はくつくつ笑っているが、到底笑い事ではない事態だったはず。
 そういえば、軀の記憶の中で、うっすら水辺が見えたような気がする。
 酷く苦しんでいたがそういうことか。

「下らん。帰るぞ」

 飛影は、軀の手を引いたが、軀は動かない。

「でも……最近は、違うんだ」

 軀が、何かを思い出すように。
 飛影は振り返る。
 何を言っているのだ。

「あの日の……後な」

 軀は、あまりに自然な動きで、水面を覗き込む。
 はっとした飛影が、水辺から引き離そうとするが、そのあまりに幸せそうな表情に思わず立ちすくむ。

「またここに来たことがあっただろ? 覗き込んでみたんだ。……お前が見えた。氷泪石を覗き込んだ時に、最初に見えたお前の顔がここにも映っていた」

 軀は振り向く。
 あの美しく穏やかな笑顔で。

「もう、あの野郎は見えないんだ。見えるのは、お前だけなんだ、飛影」

 飛影は、気付かれないようにそっと、安堵の息を吐く。

「フン」

 踊りまくる自分の内心を抑えつつ、飛影は、軀と並んで水面を覗き込んだのだった。

 記憶の水【完】
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