燃ゆる里に時雨降るらむ

「時雨。そなたを我が子般若丸(はんにゃまる)の付き役に命ずる」

 目の前に寝かされている赤ん坊の母、時雨の元々の主、火波姫がそう言い渡して来る。
 城の城主の謁見の間、華麗な床の間の手前に座るのは、城主夫妻。
 妖艶な美女にして威厳ある高位の鬼、火波姫こと火波御前(ほなみごぜん)と、その夫、この城の城主にして三雲家当主、三雲宗衛門宵紘(みくもそうえもんよいひろ)である。

 宵紘は、人間にしては堂々たる美丈夫と言える若者。
 華麗な美女である火波姫と並ぶと似合いと言える。
 明かに人間でない装飾の時雨を目の前にしても、もう慣れたのか、動揺した色は見せない。
 虚勢でなく落ち着いた物腰であるし、そもそもこうして親になり、しかもこの時代の人間界では重要な後継ぎの男児を得られたということで上機嫌そうに見える。

 あの襲撃の日から少しばかり庭の紅葉の色も濃くなった秋の日、時雨は生まれたての若君、般若丸の付き役を仰せつかったのだ。

 要するに、養育係兼護衛である。
 魔界整体師という本来の職業上、侍医の役も兼ねていると言えよう。
 ……翔馬との仕事、魔財奉行の補佐役はお役御免とならざるを得ない。

「時雨。そなたの名は、火波より聞き及んでおる」

 宵紘が上機嫌のまま、時雨に話を切り出す。

「そなたの剣の腕は、魔界でも知れ渡ったものだとか。その上、医師であり知恵も深い。息子の付き役に相応しかろう」

 ……時雨は、子供を育てる経験がない訳ではない。
 実子はないが、火波姫の幼少時の護衛を彼女の父親から命じられたことならある。
 更にその子、般若丸の付き役を命じられるなら、ここは喜ぶべきところなのだろうが。

 しかし、翔馬はどうなるのか。
 あれ以来、あの怪物がどこかに出たという話は聞かない。
 あの事件が夢だったのではないかと思えるほど、奴らはなりを潜めている。
 元の国から連れて来た少数の魔界忍者による諜報活動も、攻撃を仕掛けてい来る近隣国を特定するには至らない。
 鬼咲国の突然の栄華を不審に思う近隣国上層部は多いものの、「呼ばれざる者」信仰が蔓延しているような国というと見当たらない。
 捜査は行き詰っていると、翔馬や引継ぎした妖怪仲間から聞いている。

 気になる。
 後ろ髪を引かれる思いだ。
 だが、武士としての道は。

「謹んで、般若丸様の付き役を、拝命つかまつりまする」

 時雨は、丁寧に平伏したのである。


 ◇ ◆ ◇

 火波御前と宵紘の間に生まれた息子、般若丸は、当然ながら半妖である。

 しかし、彼の外見は、人間と変わらない。
 火波御前の角は受け継がれなかったのだ。

 しかし、である。

 般若丸にも当然のように妖気は備わっているし、そもそも彼は火波御前の特徴的な妖力、炎の妖力を受け継いでいる。
 興奮すると、体の周囲に火の玉が舞い始めるのを、まだ意思の力で完全に制御することができないようだ。

 流石に危ないので、城には防火の妖力を込めた札をそこここに貼り付けて火事が出ないように工夫してはある。
 だが、最大の般若丸の妖力制御装置として働いているのは、時雨である。
 妖気の扱い方、剣術体術の訓練、物事の基礎的な要素についての勉学――時雨が教えられるのは基本魔界基準のものであるが――などなど、時雨が般若丸に伝授するものは多岐に渡ったのだ。

 翔馬のことは、心の片隅に常にあるものの、時雨は努めて、「世継ぎ般若丸の養育係」に徹したのである。


 ◇ ◆ ◇

「しぐれ!! ほら、わんこ!!」

 般若丸が、城の庭で、空中に炎を走らせる。
 彼の妖気でできた青白い炎は、空中に拙いながらも、白い犬の似姿を描く。

「御上手ですな、般若丸様、前よりまた上手くなられた」

 時雨は感慨深い。
 火波御前の幼少期にも、ほとんど同じことがあり、幼かった彼女にほとんど同じような言葉をかけた記憶がある。

「とり!!」

 そう口にするや、すかさず鳥の形の炎を形作る般若丸は、恐ろし気な名前と裏腹に可愛らしい子供である。
 色白で、目が大きいところは母親に似ている。
 幼げながらも肢体は伸びやかさがあり、将来父親のような体格を手に入れるであろうことは、整体師の時雨には手に取るようにわかる。
 高貴な子供の着る絹の衣装、結い上げた黒髪。

「ねえ」

 般若丸は時雨のところに走って来る。

「時雨は強いんだよね?」

 憧れで目をきらきらさせる般若丸に、時雨は穏やかに微笑む。

「あなた様のお母君に、あなた様の護衛役を仰せつかるくらいには、強うございます」

 時雨は事実だけを伝える。
 実際は、魔界の中でもかなり上位に入る強さであるはずだが、上には上がいるのは忘れてはならない。
 伝説の「三竦み」なる、神かと思われる妖怪も、魔界のどこかにはいるという。
 今のところ、そやつらの勢力争いからは外れているのが故国であるが、さて、魔性石を独占輸入できている今、故国がその三大勢力の興味を引かずにいられるのは、いつまでなのだろう?

「昨日ね。すっごく強いって人に会ったよ。しぐれより強いかもって言ってた」

 いきなり般若丸にこんなことを言われ、時雨は目を底光らせる。

「……会ったと申されますと……この城の者にございますか?」

 誰だろう。
 この城にいる者で、自分より強いなど。
 しかも、そのことを般若丸本人に告げるとは。
 ……般若丸と話ができる身分?
 かなり限られて来るが。

「わかんない。どこの誰とか、言わなかったから」

 その般若丸の言葉に、時雨は不審と不安が黒雲のように押し寄せるのを感じる。
 おかしな、ずいぶんおかしな話であるが。
 本来、そんな者が、幼い般若丸が活動するのを許されている、城の中心部に侵入できる訳が。

「……どのような者でしょうか? 興味がございますな。男でありましたか? 女でありましたか?」

 魔族か人間か、と尋ねるのは愚かしく、だが何者か特定せねばならない時雨は、般若丸に威圧感を与えないように、さりげなさを装ってそんな風に訊き出そうとする。

 般若丸は。
 ふと顔を上げ、庭の一角を指す。

「あ、あのひと」

 時雨はぎょっとして振り返る。

 一体、いつの間に剣士たる時雨の背後を取っていたものか。
 少し離れた庭木の下。
 数枚散っている紅い葉を踏みしめて。
 頭から打掛らしきものを被った、男女もわからぬ奇妙な人影が、そこに立っていたのだった。
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