燃ゆる里に時雨降るらむ

 結局、あの怪物の正体は、正確には不明のままとなったのだ。

 いや、時雨も調査過程で、それらしい情報がなかった訳ではない。
 その出所は、大名家である三雲家の菩提寺である、とある寺の住職。

『昔から、仏教は仰せのようなモノと戦って来たという記録がございます』

 時雨の訪問を受けた、老齢の、痩せてはいるが威厳のある住職はそう告げたのだ。
 手入れの行き届いた庭に、色づき始めた紅葉が印象的の風景が見える、寺の客間。

『淫祀を強要する堕落した神の、その使いらしいということですが、当の邪神の正確な名前が伝わっておりません。ただ、我ら仏徒の間では、「呼ばれざる者」とだけ、言い慣わされて次第です』

 時雨は、更に突っ込んで事情を訊き出そうとする。

『密教が特に激しく奴ばらと戦って来たそうにございます。何でも、その邪神は、生贄を捧げれば、必ずやその見返りを与える、という恐ろしく邪悪な教義を持っているそうでございまして。しかも、その見返り自体はてきめんであり、それ故に栄華や力を求める者の中には、淫祀にはまり込む者が絶えないと』

 ……つまり、あの「魔性石」を狙う者の中に、邪神を味方に付けている者がいる訳だ。
 住職によれば、生贄さえ捧げれば、信徒に邪神の眷属が貸し出されること自体は珍しくはないらしく、あの怪物はそうした信徒が扱う眷属であろう、との意見である。

 ただ不審なのは、このあたり一帯は都から離れた僻地であることもあって、都会中心に隆盛した淫祀、「呼ばれざる者」信仰とは、今までほとんど縁がなかったのだ。
 どこの誰が淫祀を持ち込んだのか。
 あるいは、魔界との交易で莫大な利益を上げる魔性石の秘密を狙う他国の何者かかも知れない。
 そうなると、近隣他国の中には、淫祀が蔓延しているような危険な国がある可能性が高い。
 魔性石を露骨に狙う行動からして、他国による侵略行為の一種であるという推理が、一番理に適っているように思える。

 まずいことになった、というのが、時雨の率直な感想である。
 他国の間諜には気を付けねばなるまいとは覚悟していたが、その心構え自体は、あくまでそいつらが普通の人間だった場合である。
 邪神やその配下の怪物を従えている邪神教徒だなどという事態は想定もしていなかったと認めねばなるまい。

 重い頭と足を引きずり、時雨は翔馬の待つ奉行所に戻る。


 ◇ ◆ ◇

「ああ……まずいことになりました。何でこんなことに」

 奉行所の自室で、翔馬は頭を抱えている。
 時雨が帰ってくるのを首を長くして待っていた様子であるが、彼の持ち帰った「邪神の手の者にこの国と魔性石が狙われている」という報告を聞くや、卒倒せんばかりだ。

「まあ、急に小国が豊かになったのだ。近隣諸国のいずれかが、狙ってくるなど、予想されたこと」

 時雨は翔馬と向かい合って端然と座り、悠然と茶を喫している。
 この男は若いのだから仕方ないかも知れないが、部下もいる身なのだから落ち着け、と言いたくなる。
 これでは下々に示しがつかず、不安にもさせる。

「し、しかし……他国の所詮人間ならまだしも、邪神の加護を受け怪物を操る何者かなど……手に負える訳がないではありませんか!!」

 あなた方妖怪とも全く違う、完全な化け物だというではありませんか。
 時雨殿も、最初は苦戦されていたような……?

 翔馬が喚くのを尻目に、時雨は相変わらずのんびり茶をすすっているのみだ。
 さながら、駄々をこねる子供と、その子が泣き疲れるのを待つ大人である。

「まずは、やるべきことをやるのみだ。怪物というのなら、対抗できるようにすればいい。奉行所に属する者たちだけでも、魔性石を練り込んだ武器を支給すべきですぞ、翔馬殿」

 そして、忍びの者を使った国内外での間諜活動を強め、早期に「呼ばれざる者」信徒は何者なのか割り出し、対策を練るべきと存ずる。
 これは、拙者から殿にご進言申し上げるつもりではありますがな。

 時雨は淡々と翔馬に道を示す。
 わかっていたことだが、翔馬は若すぎるのもあるのか元々の性格か、非常事に弱い。
 人間界でも戦乱が多いと呼ばれるこの時代の武士としては致命的に、他人を率いて戦うための戦略眼にも乏しい。
 人柄は良いのだが、しかし、この状態のこの役職としてはまずい。
 こんなことが起こらなかったら、むしろ向いていたのだろうが。

 だが、まあ。
 それを見越して、火波姫様は拙者をこの若者に付けられたのであろう。
 図らずしも、恐らく感じておられた悪い予感が当たってしまった形。


 ◇ ◆ ◇

 そうこうして日々が過ぎていったある時。
 時雨は、ある意味予想された、しかしある意味においては予想外な事態に対応することを迫られたのだ。

 火波姫が、久し振りに時雨を呼びつけてこう厳命する。

「時雨。そなたを、今度生まれ来る我が子、般若丸の付きに命ずる」
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