燃ゆる里に時雨降るらむ
油断なく燐火円礫刀を構えながら。
時雨はどうにもこうにも訝る。
目の前の、この怪物は何だ?
卑しくも魔界整体師として、時雨は魔界に暮らす魔族の種族なら、一通りの知識はあるつもりである。
よほど記録に残りづらい要因のある絶滅寸前の希少種族というならまだしも、患者として自分の元を訪れる可能性がありそうな種族は頭に入っている。
しかし。
こいつは何だ。
魔族ですらない。
蛭の絡み合ったような胴体と、甲殻類の一部のような支持肢を持つその生き物は、そもそも妖気を持っていないのだ。
纏う生命力は、重苦しい、数百年を経た死霊にも似るが、しかしその一方で確かに生命力そのものは感じさせるという、時雨のような医者だからこそ混乱させられる奇怪な代物である。
人間が見れば魔族や魔獣と見分けがつかないのであろうが、時雨にはそれが魔族という結局自然の生き物でしかない存在とは大きく性質の異なる「何か」だと断言できる。
とりあえず。
主の命の実行の邪魔をするというのなら倒さねばならないが、さて、どうやったら倒せるのか?
「貴様。何者の手の者だ? この地を、魔界の鬼姫、火波姫様が御指図されている地だと知っての狼藉か?」
恐らく無駄だろうと考えはするが、時雨は一応、その怪物に呼び掛けて反応を窺がう。
ヒトの言葉にどの程度理解があるのか。
しかし、そやつは特に時雨の言葉に返事をする必要を認めなかったようだ。
きりきり言うような奇怪な鳴き声と共に、胴体に絡みついている極太の蛭に似たひも状の器官を、まるで投網のように、時雨に向け射出したのである。
時雨は、燐火円礫刀で横薙ぎに薙ぎ払って切り捨て……
いや。
その「蛭」は、恐ろしい切れ味を誇る燐火円礫刀にまともに斬りつけられても、傷も付かなかったのだ。
枯れ枝で撫でられたほどの損害もなく、燐火円礫刀の表面をつるりと滑った「蛭」は、そのまま時雨の全身に殺到し、瞬き一つもしないうちに縛り上げる。
時雨は引きずり倒され、そのまま水辺に倒れ伏す。
沢の澄んだ飛沫が上がり、時雨はずるずると怪物本体に引き寄せられて行く。
「くっ……!!これは……!!」
時雨は呻く。
あの怪物の蛭触手を斬りつけた時の手応えは妙だ。
磁石が反発するかのような不思議な力で、時雨の刃は退けられたのである。
確かに刃が蛭触手に触れていたのは確かなのに、【斬撃が全く怪物の肉体に通じない。】
時雨の目前に、蛭触手がほどけてその奥におかしな色に輝く無限の奈落が……
と。
時雨は、いきなり解放される。
水の中に放り出され、時雨は一瞬何が起こったのかわからず呆然とする。
はたと気付くと、怪物の体から煙が上がっている。
煙をたなびかせた蛭触手が、痛そうに空中で奇妙な踊りを踊っているのだ。
「!?」
時雨は咄嗟に自分の周囲を見回す。
ちょうど、横たわる自分の肉体を取り囲むように、「魔性石」の塊と、礫になったものが水中に散乱しているのが見える。
――これか。
時雨は瞬時に理解する。
どういう理屈だかは不明であるものの、この怪物は魔性石に触れただけで大怪我を負うようだ。
時雨の持つ、魔界の水牛の角製の燐火円礫刀の斬撃は通じないが、この魔性石に叩きつけられると攻撃が通るようだ。
時雨は立ち上がり、燐火円礫刀の元に駆け寄る。
それがわかればやることは一つ。
時雨は、沢の水から上に出ている紫色の魔性石に、燐火円礫刀を擦り付ける。
魔性石自体は、未加工の状態ならそう硬度が高いものではない。
燐火円礫刀で斬りつければ、湿って粘度の高くなった魔性石の粉末が刀の表面に付着するはずだ。
時雨は、愛刀の表面がうっすら紫色に輝くようになったのを確認するや、それを戦輪の要領で怪物に投げつける。
一瞬である。
時雨の投擲した燐火円礫刀が、怪物を上下真っ二つに両断する。
更に回転がかって戻って来た燐火円礫刀は、今度は角度を変え怪物を左右真っ二つに断ち割る。
時雨は、こともなげに飛来する燐火円礫刀を掴み取る。
大きく吐息を吐き、ギシギシいう肉体に今更気付く。
怪物はあれよという間に、四つの奇怪な肉塊となり、澄んだ沢の水に没して動かなくなる。
時雨は、どういう仕組みなのか、燃える蝋燭の蝋のように消えていく怪物の姿を凝視する。
魔界の生き物でも、基本生命活動が終わったからといってこんな消え方をする者はいないので、この怪物は本来この世界に存在するのも不自然な、おかしな理(ことわり)の元に生かされていた「何か」なのだろう。
時雨は、暗い疑問に脳裏が支配されるのを感じる。
結局「これ」が何かわからなかったのだ。
これが何で、何故、この場所に現れたのか。
偶然なのか。
それにしては、自分と翔馬たちを待ち構えていたようなタイミングで……
「時雨殿!?」
背後から、声がかけられた。
崖に添った大岩の陰から、翔馬が首を突き出している。
「翔馬殿。奉行所の方々も。もう大丈夫だ。出て来られよ」
時雨は振り向いてうなずく。
翔馬は心底ほっとしたように、奉行所の者たちと連れだって岸に上がった時雨の元にやってくる。
どうやら人間たちに怪我はない。
彼等を警護しろという、火波姫からの命は果たした訳だ。
「時雨殿。あれは一体……ああいうのが、魔界……というのですか、お国にはいるのですか」
翔馬は恐怖も冷めやらぬ青ざめた表情で、もうほとんど消えている怪物の残骸を見据える。
「いや。ああいうのは見たことがないし、書物にも記述がない。恐らく魔界の生き物ですらないであろうな」
そもそも、魔族や魔獣とはいえ、魔界の自然の中に生じた生き物なのだ。
死んだからといって、あんな風に消えるのは妙だ。
時雨が説明すると、翔馬の目の中の恐怖心はぶわりと膨れ上がる。
「魔界の生き物ではない!? どこの生き物なのですか? 地獄とやらの亡者なのでしょうか?」
混乱しきっている様子の翔馬にやや同情しつつ、時雨は殊更平静に応じる。
「地獄というのはあるという話だな。だが、そこの亡者がそう安易に地上を出歩けるほど、世界の壁は薄くないらしいぞ。少なくとも拙者は聞いたことがない。今のところ、あれは『正体不明のモノ』としか言いようがない」
とにかく、姫様の仰せの通りに結界を張って、ああいうのが入れないようにしてから、調査に取り掛かろう。
時雨が促すと、翔馬は今思い出したかのように懐から結界の札を取り出す。
それが発動するのを確認してから、時雨は改めて周囲を見回し。
「魔性石」と名付けられたこの奇跡の鉱石が、何を引き寄せたのか、探ろうと決意したのだった。
時雨はどうにもこうにも訝る。
目の前の、この怪物は何だ?
卑しくも魔界整体師として、時雨は魔界に暮らす魔族の種族なら、一通りの知識はあるつもりである。
よほど記録に残りづらい要因のある絶滅寸前の希少種族というならまだしも、患者として自分の元を訪れる可能性がありそうな種族は頭に入っている。
しかし。
こいつは何だ。
魔族ですらない。
蛭の絡み合ったような胴体と、甲殻類の一部のような支持肢を持つその生き物は、そもそも妖気を持っていないのだ。
纏う生命力は、重苦しい、数百年を経た死霊にも似るが、しかしその一方で確かに生命力そのものは感じさせるという、時雨のような医者だからこそ混乱させられる奇怪な代物である。
人間が見れば魔族や魔獣と見分けがつかないのであろうが、時雨にはそれが魔族という結局自然の生き物でしかない存在とは大きく性質の異なる「何か」だと断言できる。
とりあえず。
主の命の実行の邪魔をするというのなら倒さねばならないが、さて、どうやったら倒せるのか?
「貴様。何者の手の者だ? この地を、魔界の鬼姫、火波姫様が御指図されている地だと知っての狼藉か?」
恐らく無駄だろうと考えはするが、時雨は一応、その怪物に呼び掛けて反応を窺がう。
ヒトの言葉にどの程度理解があるのか。
しかし、そやつは特に時雨の言葉に返事をする必要を認めなかったようだ。
きりきり言うような奇怪な鳴き声と共に、胴体に絡みついている極太の蛭に似たひも状の器官を、まるで投網のように、時雨に向け射出したのである。
時雨は、燐火円礫刀で横薙ぎに薙ぎ払って切り捨て……
いや。
その「蛭」は、恐ろしい切れ味を誇る燐火円礫刀にまともに斬りつけられても、傷も付かなかったのだ。
枯れ枝で撫でられたほどの損害もなく、燐火円礫刀の表面をつるりと滑った「蛭」は、そのまま時雨の全身に殺到し、瞬き一つもしないうちに縛り上げる。
時雨は引きずり倒され、そのまま水辺に倒れ伏す。
沢の澄んだ飛沫が上がり、時雨はずるずると怪物本体に引き寄せられて行く。
「くっ……!!これは……!!」
時雨は呻く。
あの怪物の蛭触手を斬りつけた時の手応えは妙だ。
磁石が反発するかのような不思議な力で、時雨の刃は退けられたのである。
確かに刃が蛭触手に触れていたのは確かなのに、【斬撃が全く怪物の肉体に通じない。】
時雨の目前に、蛭触手がほどけてその奥におかしな色に輝く無限の奈落が……
と。
時雨は、いきなり解放される。
水の中に放り出され、時雨は一瞬何が起こったのかわからず呆然とする。
はたと気付くと、怪物の体から煙が上がっている。
煙をたなびかせた蛭触手が、痛そうに空中で奇妙な踊りを踊っているのだ。
「!?」
時雨は咄嗟に自分の周囲を見回す。
ちょうど、横たわる自分の肉体を取り囲むように、「魔性石」の塊と、礫になったものが水中に散乱しているのが見える。
――これか。
時雨は瞬時に理解する。
どういう理屈だかは不明であるものの、この怪物は魔性石に触れただけで大怪我を負うようだ。
時雨の持つ、魔界の水牛の角製の燐火円礫刀の斬撃は通じないが、この魔性石に叩きつけられると攻撃が通るようだ。
時雨は立ち上がり、燐火円礫刀の元に駆け寄る。
それがわかればやることは一つ。
時雨は、沢の水から上に出ている紫色の魔性石に、燐火円礫刀を擦り付ける。
魔性石自体は、未加工の状態ならそう硬度が高いものではない。
燐火円礫刀で斬りつければ、湿って粘度の高くなった魔性石の粉末が刀の表面に付着するはずだ。
時雨は、愛刀の表面がうっすら紫色に輝くようになったのを確認するや、それを戦輪の要領で怪物に投げつける。
一瞬である。
時雨の投擲した燐火円礫刀が、怪物を上下真っ二つに両断する。
更に回転がかって戻って来た燐火円礫刀は、今度は角度を変え怪物を左右真っ二つに断ち割る。
時雨は、こともなげに飛来する燐火円礫刀を掴み取る。
大きく吐息を吐き、ギシギシいう肉体に今更気付く。
怪物はあれよという間に、四つの奇怪な肉塊となり、澄んだ沢の水に没して動かなくなる。
時雨は、どういう仕組みなのか、燃える蝋燭の蝋のように消えていく怪物の姿を凝視する。
魔界の生き物でも、基本生命活動が終わったからといってこんな消え方をする者はいないので、この怪物は本来この世界に存在するのも不自然な、おかしな理(ことわり)の元に生かされていた「何か」なのだろう。
時雨は、暗い疑問に脳裏が支配されるのを感じる。
結局「これ」が何かわからなかったのだ。
これが何で、何故、この場所に現れたのか。
偶然なのか。
それにしては、自分と翔馬たちを待ち構えていたようなタイミングで……
「時雨殿!?」
背後から、声がかけられた。
崖に添った大岩の陰から、翔馬が首を突き出している。
「翔馬殿。奉行所の方々も。もう大丈夫だ。出て来られよ」
時雨は振り向いてうなずく。
翔馬は心底ほっとしたように、奉行所の者たちと連れだって岸に上がった時雨の元にやってくる。
どうやら人間たちに怪我はない。
彼等を警護しろという、火波姫からの命は果たした訳だ。
「時雨殿。あれは一体……ああいうのが、魔界……というのですか、お国にはいるのですか」
翔馬は恐怖も冷めやらぬ青ざめた表情で、もうほとんど消えている怪物の残骸を見据える。
「いや。ああいうのは見たことがないし、書物にも記述がない。恐らく魔界の生き物ですらないであろうな」
そもそも、魔族や魔獣とはいえ、魔界の自然の中に生じた生き物なのだ。
死んだからといって、あんな風に消えるのは妙だ。
時雨が説明すると、翔馬の目の中の恐怖心はぶわりと膨れ上がる。
「魔界の生き物ではない!? どこの生き物なのですか? 地獄とやらの亡者なのでしょうか?」
混乱しきっている様子の翔馬にやや同情しつつ、時雨は殊更平静に応じる。
「地獄というのはあるという話だな。だが、そこの亡者がそう安易に地上を出歩けるほど、世界の壁は薄くないらしいぞ。少なくとも拙者は聞いたことがない。今のところ、あれは『正体不明のモノ』としか言いようがない」
とにかく、姫様の仰せの通りに結界を張って、ああいうのが入れないようにしてから、調査に取り掛かろう。
時雨が促すと、翔馬は今思い出したかのように懐から結界の札を取り出す。
それが発動するのを確認してから、時雨は改めて周囲を見回し。
「魔性石」と名付けられたこの奇跡の鉱石が、何を引き寄せたのか、探ろうと決意したのだった。