燃ゆる里に時雨降るらむ

 時雨が、その突出した霊感を持つ若武者、翔馬と話す機会は、意外にもすぐ訪れる。

 翔馬は、なんとこの若さで、奉行の地位に就いていたのだ。
 それも、魔界との通商を司る重要な役どころ「魔財奉行(まざいぶぎょう)」である。

 時雨が渡って来たこの小さな国「鬼咲国(きさこく)」が、魔界の魔族にとって有用な鉱石を産出すると判明してから、さほど時は経っていない。
 しかし、火波姫の輿入れが決まり、この鬼咲国と時雨の生国の間に、正式な国交と通商が結ばれてから、主要――というか魔族にとっては唯一の――鬼咲国の輸出品を管理、そして魔界と人間界の間の貿易を管理監督する役所が必要とされることとなる。
 それが「魔財奉行所」であり、魔界と人間界の間の貿易を監督する任を負うことになったのが、篠原翔馬剣重だったのだ。

 しかし、翔馬がこの人間にとっては何とも奇妙な役所の頭に収まることになったのは、故なきことではない。

『私は、昔からいわゆる”見える”人間だったのですよ。あなた様ほど格が高い人ではなかったかも知れませんが、妖怪とも多少の交流はありました』

 翔馬は、魔財奉行としての時雨との顔合わせの時に、そんなことを告げたのだ。

『そもそも、私の母の家というのが、先祖に神、恐らくはあなた方の中でも強力で支配的な地位にあった何者かがいた、という伝承のある、旧い家でしてね……私も、多少はあなた方と似た何かを持っているのかも知れません』

 正体がわかり、そして自分を傷つける意図など欠片もないことを納得してからは、翔馬は非常に人懐こく接してくれる。
 人間との交流に多少の困難が付き物だと覚悟していた時雨にとっては、正直嬉しい拍子抜けといったところである。
 まあ、よく考えてみれば、こういった背景があり、性質的にも魔と馴染みやすいからこそ、翔馬はこの若さで「魔財奉行」などという新設の重要部署の頭に抜擢されたのであろう。
 その意図は大成功と言わざるを得ない。
 この翔馬なら話ができると、時雨も瞬時に納得したのであるから。

 翔馬は、一見人好きのする壮健で健全そうな若者であるが……その実、魔の者が強く彼の引力を感じる。
 一見のほほんとしてそうなその目に、複雑な影が宿るから。
 銀色と金色の聖なる炎のような影が、魔を誘う。
 その目は、この世のものならざるものを、静かに平静に見据えている。

『わしはそなたの今までの人生に興味があるな』

 時雨は翔馬にそう水を向ける。

『生まれが生まれとはいえ、そなたは妖気の欠片もなく、霊気しか持っておらぬ。妖怪たちに多少親しいとはいえ、友好的な者ばかりでもなかったであろう。なのに、何故、そなたは妖怪にそこまで友誼を向ける?』

 翔馬は笑う。

『たまたま、親しくなる相手が妖怪の場合が多かったと申しますか……妖怪はいいですな。良くも悪くも、肩書や地位など気にしない。そいつが何を考えているどのような者か、場合によっては共に戦えるかどうかが、あなた方にとっては重要なことだ』

 時雨は種族の間の深い川も、時には誰かの逃げ場所隠れ場所になると、心底から納得するしかなかったのだ。


 ◇ ◆ ◇

「いや……時雨殿はご健脚でいらっしゃいますな」

 息を上げながら、翔馬が山道を掻き分けて来る。
 いつもの奉行の羽織袴ではなく、脚絆に陣笠の、山に分け入るための装備。
 供として連れている魔財奉行所の役人たち数人も似たようないで立ちである。

「その大きな刀をお持ちになって……息も乱しておられない。それに引き換え私は。まだ足腰に来る年ではないと思うのですがねえ」

 軽口を叩きながら、今年でようやく数え二十五の若者が時雨の後から、その山中深くの谷に分け入る。

 森閑とした山中を獣道を頼りに分け入り、地元の猟師くらいしか知らない、切り立った崖を斜めに下りて、その沢に降り立つ。
 既に夏は過ぎ、山中の沢を撫でていく風はひんやりしているほど。
 木々の枝葉はまだまだ濃く影を落とすが、夏特有の緑がむっとする感覚は遠い。

 一足飛びに谷に降り立った時雨は悠然と周囲を見回す。

「これが紫刻谷(しこくだに)か」

 時雨は視線をところどころ緑の繁茂する崖へと移す。
 よく見れば灰色の岩肌の中に、鮮やかな紫色の岩が時にはまだらに、時には帯状となって見えている。
 そにまま沢へと目を向ければ、水に半ば浸かった石ころが、どうも鬼火を思わせる紫色を呈するのが目につく。

「……噂通りか。ここにはこんなに無造作に、『魔性石』が転がっているのだな。恐らくこの山自体が鉱脈で、この沢に顕著に露呈していると」

 時雨に言われて、翔馬はしゃがみこんで足元の紫色の鉱石「魔性石」を軽く叩く。

「……この紫色の石が、あなた方魔族にとっては、力を底上げする万能秘薬になり、万軍を退ける武器にもなる、と。不思議なものですね。綺麗なので、親父に連れられて山菜を採りにこの辺りまで来た時に、子供が拾えるくらいのものを拾って帰ったことはありますが」

 翔馬はこの鉱石の採取に関する一切を任されているにも関わらず、正直実感が湧かないといった雰囲気である。
 まあ、無理もない、と時雨は内心苦笑する。
 この石を加工する技術は人間界には存在しないと聞く。
 魔族にとっては喉から手が出る貴重品であるが、人間にとっては、せいぜいちょっと目を引く綺麗な色彩の石、だというだけである。
 せいぜい、子供のおもちゃくらいにしか用途はない。
 それだからこそ、拾い尽くされもせず、こうして無造作に転がっているのであるが。

「そうだ、結界をまず張って、滅多な奴が入らないように」

 翔馬が、火波姫から拝領した結界石を懐から取り出した時。

「!! 伏せろ!!」

 時雨は、体に斜めにかけていた燐火円礫刀を、右手で円を描くように振りかぶって投擲する。
 沢の、透明な水が流れているその上流に向けて。

 ガギン、と聞こえる、硬い音が響く。
 燐火円礫刀が、跳ね返された勢いのままに時雨の手の中に戻ってくる。

 ばちゃり、と水が跳ねる。
 沢の上に伸びる樹木の枝葉の重なりが作り出す、重苦しい闇。
 その奥から、異様な巨躯がはいずり出て来る。

 それは、どういった器官なのだろう?
 細長い、さながら衝立のような形の妙に輝くものが、巨大な胴体と思しきものから数枚突き出し、獲物である時雨を値踏みするかのように、縁の部分で光を行き来させている。
 もしや、あれは目で睨み据えているのか。
 胴体といっても、人間やよく見かけるような種類の獣とは程遠い。
 ばかでかい蛭のような細長いものが無数に絡み合った形状をしている。
 その間、胴体らしきものの両端から六対ばかり、装甲した軟体動物のような細長いものが突き出して全身を支えている。
 胴体の上側、通常の生き物では背中に当たるあたりに、先端に玉眼じみた光るものがはまった、奇怪な花にも似た器官が二本突き出し、ゆらゆらと蛇の鎌首のように威嚇している。

 翔馬も、連れて来られた奉行所の役人たちも、一斉に悲鳴を上げる。

「翔馬殿!! 連れの者と共に、あの大岩の向こうに隠れよ!!」

 時雨が叫ぶのと、その怪物の花のような器官がくわっと開くのは同時。
 射出された長い針状の弾丸を、時雨は全て燐火円礫刀で叩き落す。
 高い金属音が薄暗い沢に響き渡る。

 翔馬が連れと共に背後の大岩の向こうに逃げ去ったことを確認すると、時雨は改めてその奇怪な怪物に向きあう。

「貴様魔族でも魔獣でもないな。何者か気になるところであるが……今はそれを追求する状況にない。主の命を邪魔だてする者あらば、拙者の燐火円礫刀にて斬り捨てるのみ!!」
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