永劫氷

『でっけえ、鏡みてえな氷の塊だったな』

 凍矢は、最近知り合った雷禅の言葉を反芻する。

『どこをどう行って山頂にまで出たのか、今や覚えてもいねえが、雲より高い場所だったのは確かだ、晴れてたからな。そこに行くっつうのは、ちょっとおすすめできねえがな。このまま行かせたりしたら。幽助に恨まれそうだが……』

 何度も頼んだ。
 だからここにいる。

 凍矢は、びょうびょうと地吹雪の吹きすさぶ山肌を見上げながら、大きく溜息をつく。
 ここから山頂まで数千m。
 呪氷使いの特性故に、凍死することはないだろう。
 が、転落死の可能性なら常にあるし、そもそも、こんな人跡未踏の地に、どんな攻撃的な妖獣の類が生息しているかわからない。
 そいつらに襲われたら、今やS級の妖力をもってしても、かなり危険な状態に追い込まれる危険性はある。

「戻って来ないとな。彼らに心配されてしまう」

 凍矢は、自分にこの「永久峰」にある「永劫氷」の情報を与えてくれた存在のことを思い出す。
 有名な「三竦み」の一角だけあって、物腰の大らかな大物だった彼。
 一時仕えていた黄泉とは器の大きさが違うのは肌で感じ取る。
「氷系の妖怪の妖力能力を大幅に増大拡張させることができる」とされている幻の「永劫氷」の元に至って、無事に戻って来ることができたという、魔界でも稀有な存在。
 彼の息子の幽助から、ちらりと聞かされた、彼の若い頃の冒険譚に出て来た「永劫氷」。
 そのもっと詳しい情報を求め、凍矢は幽助のツテを使って、雷禅に面会を申し込んだ。
 彼は快く応じてくれ、少しばかり酒を入れながらも、若い頃に見たという「永劫氷」の話を出来る限り詳しく教えてくれたのだ。

『まあ、見たっつっても、俺の若い頃、千年も前のこった。今どうなってるか断言はできねえが、あの山があるんなら、あの氷もあそこにあるんじゃないかと思うぜ』

『本当によ、いい身分の女が使うような、でかい鏡台みてえな丸くて大きな「鏡」なんだ。ツルッツルで、雪まみれの俺の姿が、もう一人俺がいるみてえに映ってた』

『ふもとの村の呪氷使いから聞いた伝説によると、氷系以外の妖怪が触ってもウンともスンとも言わねえが、氷系の妖怪が触ると、その体に吸収されて、そいつの妖力や能力を大幅に上昇させるってことらしい』

『ただし、ここ何千年も、そこに辿り着いた氷系の妖怪はいねえんだそうな。何か邪魔が入るらしいぜ。どういう邪魔かは詳しくはわからねえが』

 凍矢は、足元に妖力を込めて雪の分厚く積もった山肌を進む。
 呪氷使いの妖力は、親和性のある足元の雪に反応し、一種の斥力めいた力を生み、凍矢の足先は雪の表面の少し上に浮かんで、そのまま浮遊移動する。
 もしこの光景を目撃した人間がいたなら、「雪の上でも不自由なく滑るように歩む化け物」と表現したであろう。
 凍矢の属する呪氷使いばかりか、氷系の魔族のほとんどに備わる一般的な能力なのであるが。

 巻き上がる地吹雪にも邪魔されず、尾根を淀みないペースで進んでいく凍矢は、ふと立ち止まる。

 誰かいる。

 こんな凍り付いた山中に誰かが。

 目を凝らし。
 瞬間、凍矢はそれこそ凍り付く。

「……画魔」

 凍矢は息を呑む。

 血まみれで、化粧を施された体がよく判別できる薄着の、よく知った元の仲間。
 あの凄惨な試合がたった今だったかのように、千切れた腕からぼたぼたと血が……

 いや、馬鹿な。

 凍矢は、恨みがましい視線を送って来る元仲間の幻から強引に視線を逸らす。
 あの試合は二年近くも前のこと。
 画魔はそのくらい前に亡くなっている。
 あの混乱の中でままならなかったものの、どうにか簡素な弔いもしたはず……

「!!」

 凍矢はぎくりとする。
 画魔が、いきなり手招きする。
 そしてふいっと背中を向け歩き出す。

 思わず付いて行きそうになり、凍矢ははたと我に返る。

 ……この先は、確か切り立った谷がある。
 このまま進めば転落してしまう。

 なるほど、と凍矢は納得する。
 雷禅が言っていた「氷系の妖怪の前にだけ現れる邪魔」というのはこれのことだ。
 恐らく、そいつの記憶を読み取り、懐かしい相手、容易に会えないような相手の姿の幻を見せるのだ。
 ついフラフラと後をついていったら、谷底に滑落させられるという寸法。
 S級妖怪になると滑落くらいでは死なない可能性もあるが、谷底には「何が」いるのか?

 凍矢は荒い息を吐く。
 悪趣味な、と口の中だけで呟き、そのまま構わず尾根を進み始める。

 いつの間にか画魔の姿は消え、視界は一面の黒くにじむ白。

 と。

 ……何か聞こえる。

 凍矢は再び立ち止まる。
 もうだいぶ進んだように思うのだが、視界は相変わらず地吹雪で塗りつぶされている。
 こんな凍り付いた山で物音。
 この山に生息する魔獣だろうか。

 ふと。
 地吹雪がやみ始める。

 凍矢の視界の中に、白以外の色が見える。

 ……誰かの、服?

 更に目を凝らし、凍矢は心臓が止まりそうに……

「蔵馬!?」

 思わずその名を口にする。
 いや、彼がこんなところにいるはずがない。
 今だったら人間界に帰っているはず。

 しかし、その姿は、あの暗黒武術会で見かけた中華風の武道着を着用した、よく見知った蔵馬の姿なのだ。
 彼も雪の上にどういう原理かで浮いているように見える。

 ……いや、これも蔵馬ではない。
 幻だ。

 騙されそうになるほど真に迫った幻であるが、希薄な妖気からして本人がここにいるのではない、と凍矢は判断する。
 そもそも妖気を確認するまでもなく、まさに自分が人間界への帰還をつい先日見送った蔵馬が、今この瞬間にここにいるのは、物理的にも有り得ないのであるが。

 落ち着け、幻だと自分に言い聞かせる凍矢に、蔵馬の幻が笑いかけ……

 地面から華麗な色彩が間欠泉のように湧き上がって来たのは、その時だ。

 分厚い雪を撥ね散らし、巨大な寒色系と白の組み合わせの葉や、茎、棘だらけの茎、そしてあまりに美しい大輪の花が伸びあがり、凍矢に獣よろしく突進してくる。

「氷床薔薇(ひょうしょうばら)か!!」

 凍矢は愕然と叫ぶ。
 凍り付いた環境にだけ繁茂する魔界植物。

 凶器のような長大な棘の生えた茎が檻を形作ったと思いきや、一気に凍矢を巻き上げる。
 さながら拷問器具に閉じ込められたように、凍矢はなすすべもなく棘に幾重にも刺し貫かれ、閉じ込められ……

「雹牙(ひょうが)!!」

 凍矢の周囲で、本物の竜の牙のように尖った人の頭くらいはある雹が荒れ狂う。
 一瞬で氷床薔薇はズタズタになり、巻き付いた中心から凍矢は無傷で姿を表す。

『へえ。凄いな、凍矢。期待以上だよ。でも……』

 幻の蔵馬が更に笑みを深くする。

「無礼なニセモノめ!! 失せろ!!」

 凍矢は幻の蔵馬に、雹牙を叩き込む。
 幻は跡形もなく消え去る。
 頭に覆い被さっていたかのような圧が、いつの間にか晴れているのに、凍矢は気付く。

 視界が開ける。
 明るくなってくる。

 凍矢は迷わず進む。

 いつの間にか、ぽかりと明るい場所に出ている。
 あの魔物のはらわたみたいな雪雲を抜けたのだとようやく認識する。

 凍矢は、生まれて初めて、魔界の太陽を目にする。
 人間界とよく似た無情なまでに真っ白な輝き。
 眼下には雲海、太陽の背景の空は、地球の高山と似て、黒ずんだ紺色である。

 山の尾根の、黒っぽい岩肌には、七色の氷がそこここに水晶のように転がっている。
 その奥。
 ちょうど突き出した岩の上に、大きな丸いキラキラしたものが、太陽の光を受けている。

「いい身分の女が使う鏡台みたいにでかくて丸い鏡」。
 雷禅の言っていた通りのものが、山頂に鎮座している。

 これが。
 氷系妖怪の力の核となる「永劫氷」。

 凍矢は近付く。
 確かに雷禅の言葉の通りに、もう一人自分がいるかのように鮮明に、永劫氷の表面に凍矢の姿が映っている。

『お前は、この永劫氷の力で何をするのだ?』

 いきなり、氷の鏡の中のもう一人の凍矢が、本物の凍矢に語り掛ける。
 何となく予想はしていた凍矢は、さほどの驚きもなく受け答える。

「帰って、力を自分に馴染ませるべく訓練するさ。陣たちにも手伝ってもらうことになると思う。蔵馬にも報告しないと。それから、お前さんのことを教えてくれた雷禅に、菓子折りでも持ってお礼に行かないとな」

 ここまで来る神獣を貸してくれた、幽助の兄上にもお礼を……それと、幽助はいるかな。

 自分の記憶を読み取れるくらいなら、今後どうするかなんて決まっている、仲間の元へ帰るだけだなんて、読み取れただろうに。

 そんな感慨を抱いた瞬間、ふっと輝く永劫氷が掻き消える。
 きらきらした銀河みたいな光の流れが、凍矢の体に纏いつき吸い込まれ。
 凍矢は、新たに生まれ変わったような自分の心身に、喜びの声を上げて天に手を伸ばしたのだった。
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