妖狐夜話
「深花姫様は、伯父に当たる執権に養女として引き取られることが決まりました。行く行くはそれなりの方に縁付かれることでしょう。行末は安泰ですよ」
眼下で忙しく立ち働く僧侶たちを眺めながら、無明聖はさりげなく隣の蔵馬に告げる。
とある寺院に面した、大木の枝の上。
春の昼前のうららかな陽光は、木漏れ日となってその枝の上の二人の種族違いの男に降り注ぐ。
無明聖と幹を挟んで反対側の枝に、蔵馬が肩で幹によりかかって立っている。
その背中には、何やら華麗に飾られた太刀と、袋に突っ込まれた大荷物。
蔵馬は、大騒ぎの寺院の本堂から流れて来る香をさりげなく味わいながら、ほう、と笑う。
「……この件の依頼人は執権本人という訳か。なるほど、しがない坊主ごときが手を抜くことはできない訳だ」
蔵馬は、無明聖の摩利支天咒に護られた安全圏から、眼下の僧侶たちの緊迫しきった表情や仕草を面白そうに睥睨する。
耳を澄ますと、僧侶たちの会話に「狐」「悪狐」という単語が頻出するのが聞こえてくる。
目の前で繰り広げられているその儀式は、「執権の従兄弟の須佐盛様を殺した悪狐を調伏する修法」なのである。
当の「悪狐」が修法を面白そうに見物しているなど、知っているのは隣の不良法師だけ。
「これは独り言ですが」
無明聖がふと顔をそむけて虚空を見据えながら言葉を転がし始める。
「執権は、ご自身の従兄弟がよりにもよって邪神信仰にはまったことに頭を悩ませ、また、かの者の娘である深花姫の身もかねてより案じておられました。須佐盛様がもはや引き返せないところに行っているということをご理解なさってからは、深花姫救出を優先し、須佐盛様本人の命はなくて良いと」
「なるほど」
蔵馬は軽く形の良い顎をつまむ。
ふと遠くを見ると、
「法師よ。結局、あの事件の黒幕は誰だったのだ? 須佐盛自身までもが生贄になる予定だったとなると、全てを差し金した黒幕が別にいるはずだろう?」
無明聖は、顔の向きを戻し、ふう、と重い溜息を落とす。
「奴ら邪神信徒の中にも、厳然として階級というものがございます。それは俗世の身分とはまた違うものでしてね。須佐盛様は、俗世では身分は髙うございましたが、邪神信徒としてはまだまだ駆け出しでして。結局、より悪辣な高位の信徒に娘もろともいけにえになるべく、騙されてしまったのですよ」
どんな世界にも上には上。
邪神信仰の世界では、そういうのは本当に容赦がないものですからね。
「その高位の信徒とやらは具体的に誰だかわかっているのか」
蔵馬はじっと無明聖を見据える。
「まだはっきりはしていません。この鎌倉に、とりまとめ役の邪神信徒は数人いるはずですが、そのうちの誰なのか。邪神といえど神であり、奴らは神の業を使いますので、こちらの調査もなかなか進まないのですよ」
再度溜息を落とす無明聖を、蔵馬は坊主というのも大変そうだなとの感慨と共に見詰めるだけだ。
「ま、これで俺はようやくお役御免だな」
蔵馬は、身を起し、自分を調伏している最中だという寺院に背を向ける。
背中の太刀と荷物を指し示し、
「礼の品は確かに受け取った。俺も満足の品だ。まあ、これでお前の命は狙わないでおいてやる」
「ああ、そうそう」
ふと、無明聖が声を弾ませる。
「深花姫様が……あなたに、重々礼を述べておいてくれと。あなたのことは、一生忘れないそうです」
蔵馬は振り返る。
無明聖は穏やかに微笑んでいる。
「そうか」
蔵馬はふと虚空を見上げる。
人に感謝されるなんてどのくらいぶりか。
記憶も曖昧になるくらい昔だ。
ふと、蔵馬は無明聖を見据える。
「……あの女には気を配ってやれ。お人好しそうだからな。今後もあらぬ奴に付け込まれぬよう」
「ええ、もちろんです。……あなたにそんなことを言われるなんて、思いもしませんでしたね」
「それと」
「?」
無明聖が首をかしげると、蔵馬はじっとその眼を見詰める。
「……あの術は良かった。もし、気が向いたら、またお前と組んでやっても良いぞ。気が向いたらな」
無明聖が何か返事する前に。
蔵馬の姿は、不意に通り過ぎた風に紛れ、一瞬で消えていたのだった。
◇ ◆ ◇
「マジか。蔵馬が言ってたことって、そういうことだったんか!!」
いちごタルトを食べるのを途中から忘れていたらしい幽助が叫ぶ。
「そういうことだ。色んな意味で助かったね、あの時は。本当に危い事件だったのだよ。蔵馬さんがいらっしゃらなかったらと思うと、正直ぞっとする」
永夜は、冷めてしまった紅茶で唇を湿らせる。
と、その時。
軽く扉がノックされる。
この妖気は。
「ん? 北神か、あれ、連れてんの……」
「失礼、永夜さん、幽助さん。蔵馬さんがお見えなのですが」
北神が扉を開くと、そこには彼とその後ろに普段着の蔵馬の姿。
「よお、蔵馬!! ちょうど兄貴と、オメーの話をしてたところでよー」
幽助が椅子を勧めると、蔵馬は礼を述べて座る。
永夜はにこやかに、新しい紅茶を淹れに立つ。
「法師様と俺の話? ああ、鎌倉で組んで戦った時のことだね。まあ、あれは想定以上の成功を収められた事例だったなあ」
ねえ、法師様?
蔵馬が笑いかけると、永夜も微笑む。
「ええ。あの時は本当に助かりましたよ。その上に、弟まで助けてくれるんですから、あなたは本当に有難い方ですよ」
また、私と組む気はありませんか?
永夜が戯言を投げかけると、蔵馬は人が悪く笑う。
「ええ、そうですね。時給7000円からで手を打ちましょう。それに危険手当、必要霊具の支給、渡航手当なんかも含めて……」
「あの」
永夜は思わずミルクパンにミルクを注ぐ手を止める。
「……あなた、本当に蔵馬さんですか? そんなキャラでしたっけ?」
「やだなあ」
蔵馬はますますニコニコする。
「俺が前より可愛くなったからって見損なっちゃって。あ、可愛い手当出してくれたら、モフらせも付けますよ」
「何ですか可愛い手当って」
「……お互いに、丸くなりましたよね、俺たち。色んな出会いのお陰で」
かつて無明聖だった永夜は、不意の真剣な響きに、蔵馬を振り返る。
そこにはあの春の日のような、穏やかで暖かい光が見えたのだった。
眼下で忙しく立ち働く僧侶たちを眺めながら、無明聖はさりげなく隣の蔵馬に告げる。
とある寺院に面した、大木の枝の上。
春の昼前のうららかな陽光は、木漏れ日となってその枝の上の二人の種族違いの男に降り注ぐ。
無明聖と幹を挟んで反対側の枝に、蔵馬が肩で幹によりかかって立っている。
その背中には、何やら華麗に飾られた太刀と、袋に突っ込まれた大荷物。
蔵馬は、大騒ぎの寺院の本堂から流れて来る香をさりげなく味わいながら、ほう、と笑う。
「……この件の依頼人は執権本人という訳か。なるほど、しがない坊主ごときが手を抜くことはできない訳だ」
蔵馬は、無明聖の摩利支天咒に護られた安全圏から、眼下の僧侶たちの緊迫しきった表情や仕草を面白そうに睥睨する。
耳を澄ますと、僧侶たちの会話に「狐」「悪狐」という単語が頻出するのが聞こえてくる。
目の前で繰り広げられているその儀式は、「執権の従兄弟の須佐盛様を殺した悪狐を調伏する修法」なのである。
当の「悪狐」が修法を面白そうに見物しているなど、知っているのは隣の不良法師だけ。
「これは独り言ですが」
無明聖がふと顔をそむけて虚空を見据えながら言葉を転がし始める。
「執権は、ご自身の従兄弟がよりにもよって邪神信仰にはまったことに頭を悩ませ、また、かの者の娘である深花姫の身もかねてより案じておられました。須佐盛様がもはや引き返せないところに行っているということをご理解なさってからは、深花姫救出を優先し、須佐盛様本人の命はなくて良いと」
「なるほど」
蔵馬は軽く形の良い顎をつまむ。
ふと遠くを見ると、
「法師よ。結局、あの事件の黒幕は誰だったのだ? 須佐盛自身までもが生贄になる予定だったとなると、全てを差し金した黒幕が別にいるはずだろう?」
無明聖は、顔の向きを戻し、ふう、と重い溜息を落とす。
「奴ら邪神信徒の中にも、厳然として階級というものがございます。それは俗世の身分とはまた違うものでしてね。須佐盛様は、俗世では身分は髙うございましたが、邪神信徒としてはまだまだ駆け出しでして。結局、より悪辣な高位の信徒に娘もろともいけにえになるべく、騙されてしまったのですよ」
どんな世界にも上には上。
邪神信仰の世界では、そういうのは本当に容赦がないものですからね。
「その高位の信徒とやらは具体的に誰だかわかっているのか」
蔵馬はじっと無明聖を見据える。
「まだはっきりはしていません。この鎌倉に、とりまとめ役の邪神信徒は数人いるはずですが、そのうちの誰なのか。邪神といえど神であり、奴らは神の業を使いますので、こちらの調査もなかなか進まないのですよ」
再度溜息を落とす無明聖を、蔵馬は坊主というのも大変そうだなとの感慨と共に見詰めるだけだ。
「ま、これで俺はようやくお役御免だな」
蔵馬は、身を起し、自分を調伏している最中だという寺院に背を向ける。
背中の太刀と荷物を指し示し、
「礼の品は確かに受け取った。俺も満足の品だ。まあ、これでお前の命は狙わないでおいてやる」
「ああ、そうそう」
ふと、無明聖が声を弾ませる。
「深花姫様が……あなたに、重々礼を述べておいてくれと。あなたのことは、一生忘れないそうです」
蔵馬は振り返る。
無明聖は穏やかに微笑んでいる。
「そうか」
蔵馬はふと虚空を見上げる。
人に感謝されるなんてどのくらいぶりか。
記憶も曖昧になるくらい昔だ。
ふと、蔵馬は無明聖を見据える。
「……あの女には気を配ってやれ。お人好しそうだからな。今後もあらぬ奴に付け込まれぬよう」
「ええ、もちろんです。……あなたにそんなことを言われるなんて、思いもしませんでしたね」
「それと」
「?」
無明聖が首をかしげると、蔵馬はじっとその眼を見詰める。
「……あの術は良かった。もし、気が向いたら、またお前と組んでやっても良いぞ。気が向いたらな」
無明聖が何か返事する前に。
蔵馬の姿は、不意に通り過ぎた風に紛れ、一瞬で消えていたのだった。
◇ ◆ ◇
「マジか。蔵馬が言ってたことって、そういうことだったんか!!」
いちごタルトを食べるのを途中から忘れていたらしい幽助が叫ぶ。
「そういうことだ。色んな意味で助かったね、あの時は。本当に危い事件だったのだよ。蔵馬さんがいらっしゃらなかったらと思うと、正直ぞっとする」
永夜は、冷めてしまった紅茶で唇を湿らせる。
と、その時。
軽く扉がノックされる。
この妖気は。
「ん? 北神か、あれ、連れてんの……」
「失礼、永夜さん、幽助さん。蔵馬さんがお見えなのですが」
北神が扉を開くと、そこには彼とその後ろに普段着の蔵馬の姿。
「よお、蔵馬!! ちょうど兄貴と、オメーの話をしてたところでよー」
幽助が椅子を勧めると、蔵馬は礼を述べて座る。
永夜はにこやかに、新しい紅茶を淹れに立つ。
「法師様と俺の話? ああ、鎌倉で組んで戦った時のことだね。まあ、あれは想定以上の成功を収められた事例だったなあ」
ねえ、法師様?
蔵馬が笑いかけると、永夜も微笑む。
「ええ。あの時は本当に助かりましたよ。その上に、弟まで助けてくれるんですから、あなたは本当に有難い方ですよ」
また、私と組む気はありませんか?
永夜が戯言を投げかけると、蔵馬は人が悪く笑う。
「ええ、そうですね。時給7000円からで手を打ちましょう。それに危険手当、必要霊具の支給、渡航手当なんかも含めて……」
「あの」
永夜は思わずミルクパンにミルクを注ぐ手を止める。
「……あなた、本当に蔵馬さんですか? そんなキャラでしたっけ?」
「やだなあ」
蔵馬はますますニコニコする。
「俺が前より可愛くなったからって見損なっちゃって。あ、可愛い手当出してくれたら、モフらせも付けますよ」
「何ですか可愛い手当って」
「……お互いに、丸くなりましたよね、俺たち。色んな出会いのお陰で」
かつて無明聖だった永夜は、不意の真剣な響きに、蔵馬を振り返る。
そこにはあの春の日のような、穏やかで暖かい光が見えたのだった。