妖狐夜話

 かつては須佐盛だった、目の前の怪物は、後方に根兼触手を伸ばして、逃げ損ねた元臣下を吸収している。
 根に触れられた途端、人体はうっすら光っているような奇妙な灰色の物質に変化して崩れ落ち、根に吸われている間に完全に消える。

 蔵馬はその様子を視界の端に捉えながら、どういうことだと考え込む。

 あの植物は、本来なら深花姫が種を埋め込まれて変化するものだったはず。
 姫をあんなシロモノにしては、生贄として捧げたはずの須佐盛だって危く……

 そうか。
 蔵馬は瞬時に悟る。

「生贄」だったのは、深花姫一人ではない。
「この儀式に参加するはずだった全員」だ。
 深花姫本人は父親の手によって化け物に変わり、その化け物に姫を生贄に捧げたはずの父親や臣下の者全員が食い殺されるという算段。

 あまりの悪どさに、さしもの妖狐蔵馬も慄然とする。
 魔界でもなかなかお目にかからぬ徹底的なやり方。
 いっそ、お見事だと褒めてやるべきか。

「計算違いは唯一、俺たちが介入してきたこと、か」

 蔵馬はひとりごち、薔薇棘鞭刃を振るって伸びてきた触手をいなそうとする。

 ……どうも妙だ。

 蔵馬は、極太の触手に破砕される土塀から飛び離れながら、今しがたの手ごたえを反芻する。
 おかしな弾かれ方をした。
 手ごたえがないというのではない、妙な力に介入されて萎えたような、力が逸らされたような。

「風華円舞陣!!」

 無駄だろうと予想しながらも、蔵馬は月光の下に全身を現わした怪物植物に向け、切り裂く花びらを纏いつかせる。

 案の定。
 鋭い刃物と化しているはずの花びらは、この上なく切り裂きやすそうな巨体に傷も付けられぬ。
 それどころか、怪物のおぞましい表皮に近付いただけで、くしゃりと灰色に崩れ去って痕跡も残らず消えていく。

 なるほど。
 蔵馬は内心呻く。

 あの法師の言った通りだ。
 あやつが戦っているのは、そしてこの事件の背後にあるのは、異界の邪神とその手の者。
 その邪神の力を帯びると、人間界、霊界、魔界、いずれの力でも通用しない。
 ただ、神仏の加護のみが通じる、と。

 それは坊主の贔屓目ではないか? と半信半疑であった蔵馬だが、こうして目の当たりにしてしまえば、信用するしかない。

 蔵馬は挑発に薔薇棘鞭刃を振るいながら、怪物を誘導しようと試みる。
 崩れた屋敷から、由比ヶ浜へ。
 広い所の方が、まだ戦いやすい。
 内陸の住宅に突っ込まれでもしたら、あの法師に後で殺されそうなことだし。

 怪物は、特に何も警戒する様子もなく、蔵馬の後を追って由比ヶ浜へと出る。
 極太の肢というべき絡み合った根が、先端の爪で砂を蹴立てながら、砂浜にめり込む。

 怪物の体のあちこちに生えたキノコ状のものが膨れ上がり、爆ぜ割れて内部から燃える球状のものを射出する。
 間一髪避けた蔵馬の傍らで、炎の玉が砂浜に突っ込み炸裂する。
 爆風に蔵馬は煽られ波打ち際近くまで飛ばされるが、本当に厄介なことは後からやってきた。

 急に、くらりとするような眩暈がこみ上げてきて、蔵馬は咄嗟に息を止める。
 強烈な炎が上げる臭気が、蔵馬の意識を奪いそうになっているのだ。

 まずい。
 蔵馬は青い闇の中でごうごう燃え上がる炎を眺めながら舌打ちする。
 この何が燃えているのだかわからない炎は、確実に異界の毒気を発している。
 魔界の瘴気の中で生まれ育った蔵馬ですら倒れそうになるものだ。
 蔵馬の肉体の抵抗力になんぞ、何の意味もないであろう。

 蔵馬は、自分の全身がうっすら金色に発光しているように見えているのに気付く。
 あの、無明聖が残していった術だ。
 どうも、それが自分を異界の毒の浸食から護っているらしい。
 あの法師も大したものだ。
 褒めてやってもいいなと思う。

 どんどんと放たれる炎の玉を避けながら、蔵馬は一気に大型のものを呼ぶ。

 軋むような咆哮を上げて、砂浜から伸びあがるのは、魔界原産のオジギソウ。
 蔵馬の前に幾重にも展開し、図らずも壁を作るような形で、異界植物の炎弾を迎え撃つが。

 悲鳴はあっけないものだ。
 その最期も。
 火気には強い抵抗力を持っているはずの魔界のオジギソウは、異界植物の炎弾にまともに巻き込まれた途端、あっけなく崩れて蒸発したのだ。
 並みの枯草を焚火の中に投げ入れたのよりも呆気ない。

「くっ……!!」

 蔵馬は荒い息を吐く。
 異界植物がじりりと、蔵馬に迫り……

「オン・マカキャラヤ・ソワカ!!」

 朗々とした大黒天咒が唱えられるのと同時に、飛来した輝く闇とでも言うべきものが、砂浜を焼く毒の炎を、異界植物の振り上げた根を、一気に呑み込む。

 途端に、蔵馬は呼吸が楽になったのを感じる。

「……すぐに来いと言っただろう。遅いぞ」

 蔵馬は、振り向きざまに背後の人影に向かって文句をぶつける。

「失礼。姫君を打ち合わせしておいた尼寺に預けてきたのですが、手続きがあったのですよ、ああいうのには」

 無明聖が、例の治癒術を蔵馬にかけてくれる。

「しかしな。あれはどうしたらいい」

 半ばから消失した触手をぶんぶん振っている異界植物を、蔵馬は渋い顔で見やり、視線を無明聖に戻す。

「お前の術でなら消し飛ばせるなら、早くしろ」

「いえ。単純に消し飛ばしただけでは、不安要素が残りますねあれは」

 月光の下、厳しい表情で、無明聖は言い切る。

「と、いうとどういうことだ?」

 蔵馬に飛んできた炎弾が、また輝く闇に呑まれ消える。

「通常のやり方で排除しただけでは、あれの切れ端やら種やらが残ってしまうかも知れません。そうなると災厄はいつまで経っても終らない。姫君を救出した意味もない」

 永夜の言葉に、植物を操る蔵馬は、どういうことだか瞬時に理解する。
 あの化け物植物は生命力も化け物ということか。

「どうすればいい」

「蔵馬さん、あなたの力を貸してください。あなたは今、私の使い魔となることで、天界と繋がっているはずだ。あれに対抗する、天界の植物を呼べるはずです」

 蔵馬はその言葉で、まじまじと無明聖を見据える。

「なんだと……」

「天界の植物、その中でも神聖なものを……さあ!!」

 無明聖が、蔵馬の額に触れる。
 途端に、彼の脳裏に、魔界植物とは違う天界の植物の知識が一気に流れ込んで来る。
 輝く焔のようなその植物が、蔵馬を遠くで呼び始め……

「さあ、蔵馬さん!!」

 蔵馬は呼び掛けられるまでもなく、そのまま前に進み出る。
 清浄なる闇に曝されてまっさらになった砂浜に、それが赤々と燃え盛る様を想起する。

 ……召喚(よ)べる!!

 菩薩のように両手を広げた蔵馬の背後に、一気に巨大な樹木が伸びあがる。
 数百年を一瞬に縮めたように、見る間にそれは枝葉を大邸宅の屋根より大きく広げ、そのあちこちに反り返った大輪の花を咲かせる。
 本来の明るい太陽の下でより、この青い月光の下でこそ更にまばゆく、それは焔の如くに燃え盛る。

「……邪悪を焼き、神聖を寿ぐ花と言われているそうだな。これは。神界火焔樹(かえんじゅ)!!」

 天女の袖のようなひらひらとした、華麗な真紅の花びらが、まさに燃え盛る輝きで薄闇を押しやる。
 そのたおやかな花びらが、ひらり、またひらりと、まるで桜のように散り始める。

 真紅の花びらが触れた怪物は、まさに爆発する勢いで燃え上がる。
 蔵馬も見たことがある護摩の炎のように、天空に向け炎の柱がそそり立つ。

 あの愚かな須佐盛の顔が、神聖な天界の炎に包まれ絶叫している。
 が、すぐにそれも炎の中に消えていく。

 豪雪のように降り注ぐ神聖な炎の中で、あの異界の植物は、跡形もなく燃え尽きていったのだった。
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