螺旋より外れて

「これは面倒なことになったな」

 軀がちっとも面倒でなさそうに呟く。
 彼女の足元には光る直方体のようなものが浮かんでおり、彼女はそこにのんびりと乗っている。
 空間をいじっているようだ。
 そこいら中を覆い尽くす軟体生物に影響された様子はない。

「うむ。大聖堂に行くには、ここを通らなければならない、しかし、この辺り一帯はこの妙な軟体生物に覆われている」

 黄泉がぐねぐねする足元にも掬われた様子なく、淡々と応じる。
 彼は幻でそのどこに感覚器官があるかもわからない生物を騙しているようだ。
 そこだけ波打ち方が穏やかである。

「こいつ、どいつかに操られているな。例えば、あいつとかよ」

 雷禅の周囲には、まるで避けるように軟体生物の体が見られない。
 そこだけ地面が見えている、雷禅自身の視線の先には。

『……』

 誰かがいる。
 空中に、貼り付けられたかのように浮かんでいる。

 女性にしてはやや高めな身長、しかし男性にしては低め。
 軀よりは少し高い。
 ぱっと見、どちらかはわからない。
 見た目、可愛い少女のようにも見える。
 明るい色の丸っこいショートヘア。
 ツルリとした顔の輪郭に、大きなきらきらした緑色の目と控えめな鼻と口。
 しなやかな体格をニットとショートパンツの衣装に包んでいる。
 両足首の少し上に、小さな翼があり、それで空中に浮かんでいるようだ。

『どこ。よくわかんない。でも、いること、わかる』

 その少女のような少年のような存在が、耳に快い声で空中に言葉を投げる。
 声でも男女どちらかわからない。
 やや低めの女性の声にも、高い男性の声にも聞き取れる。
 遠くから響いて来るような、耳元でささやかれているような、不思議な聞こえ方。

「なるほど。こいつがこのぐにゃぐにゃを操ってるという訳か」

 軀は、その不思議な人物の言葉を意に介さず、三竦みの残り二人に言葉を放る。

「まあ、どのみち、俺たちを正確には捉えられないようだ。始末は簡単だな」

 黄泉は、相変わらず自分の幻に絶対の自信があるようだ。
 彼にしては無造作と言える意見を口にする。

「今更情報訊き出そうとか言うなよ。……よし」

 雷禅が、巨大な幻の手を作り出し、その不思議な人物を鷲掴みにしようとする。
 その瞬間。

「うおっと」

 雷禅の幻の腕を伝って、あの人物が作り出したのだろう軟体生物の一部が雷禅に殺到する。
 途中で黄泉の幻に遮られたか、雷禅の周囲にぼとぼと落ちていくが。

『私は、王腐(おうふ)。「呼ばれざる者」の司祭の王腐。この波打つもの、私の体。あなた方、もう、逃れられない』

 王腐が名乗るなり、周囲の軟体動物――王腐の肉体――がうねり始める。

「ふむ。この軟体動物そのものがあの王腐とかいう司祭の体だというのか。すると、何かちょっと異常があれば感知されてしまうな」

 黄泉が形の良い顎に手を当てる。
 慌てた様子がないのは、それでも月の幻は圧倒的だという認識からだろう。

「攻撃すると居場所を感知されちまうってことか。せっかく黄泉の幻があるのに、くそめんどくせえ」

 雷禅が不機嫌に唸る。

「なに。やりようはある」

 軀が空間を固めた直方体を上昇させる。
 黄泉とちらと目くばせし、王腐と同じ高さまで浮かんだところで、空間破砕流を放つ。
 一瞬。
 すでに、そこに王腐はない。

「まあ、これで」

『甘い。私、いなくならない』

 本体に見えた王腐が消えた後。
 三人の足元にうねる軟体動物の一部から声が聞こえる。

 ずるずると。
 まるで特大のきのこのように、軟体動物の中から、何かがせり出してくる。
 一つだけではない。
 一定の間隔を置いて何十体も。
 まさにきのこの群生のように軟体動物から生えだしたそれは。

 王腐だ。

 あの印象的な美貌の王腐が、何故か衣装もそのままで軟体動物から「生えてきて」いるのだ。
 それも数十体。
 一見美少女が菌糸類のような性質に見えるのは悪い意味で忘れがたい光景である。

「へえ。あれが本体じゃなかったってことか。まあ、そうだろうとは思ったけどよ」

 雷禅は自分の周囲をぐるりと取り囲むような形の王腐の群れを見回す。

『私、本体、ない。全部、本体。このあたり全部、私』

 数十体の王腐が一斉ににやりとする。

『さっきので、あなた方、居場所、わかった』

 突如。
 いきなり黄泉の幻が無効になったかのように、無数の王腐が、三竦み全員に襲い掛かる。
 空中の軀の背後に迫っていた軟体の壁からも王腐が数人生えてきて彼女に掴みかかる。

 あっという間もない。

 三竦みは、司祭・王腐の肉体に取り込まれててしまったのだ。
 すでにそこには王腐以外の気配はない。

『王腐から本部へ。侵入者、始末した』

 生えて来た王腐の中の一体に見えるものが、念話なのか何なのか、どこかへ話しかけている。
 それ以外の音はない。
 廃墟に吹く埃っぽい風。

 と。

『!?』

 突如、空が強く輝き出す。
 いつもの雷光ではない。
 雷雲と同じくらいの高さから、まっすぐな光の柱が無数に降り注ぐ。

 大音声。

 生えて来た人型の王腐が、全て光に焼き尽くされる。
 このあたり一帯を覆った光の柱は、王腐の全体を貫いている。
 これは軀がアポピスから譲り受けた技のはず。

『……?』

 ふと、王腐は気づく。
 激痛を感じたと思いきや、周囲の風景が変わっている。

 明るい、明らかに人間界の、どことも知れぬ草原である。
 遠くになだらかな山並み、そして周囲には柔らかで鮮やかな草が一面に生え揃い、わずかの風に揺れている。

『!?!?』

「やあ、王腐。楽しんでもらえているかな?」

 ふと。
 王腐の肉体の外、少し離れた場所に、角の多い黒髪の、長身で整った目鼻、何故か目を閉じている魔族の男性がたたずんでいる。

 黄泉だ。

 侵入者はこいつだったのか。

 王腐は、一気に軟体の体を伸ばし、黄泉を取り込もうと……

 その瞬間、またしても周囲の景色が変わる。

 最初、王腐はあまりにまばゆい光に視覚センサーをひっこめたのだ。
 しかし、それも無駄に終わる。
 目の前に、見たこともない、あまりに膨大な熱と光を放つ何かが存在していた。
 それが何かと考える時間もなく。
 王腐は一瞬で蒸発したのだ。

「うん、片付いたな」

 黄泉が、先ほどと何ら変わらぬ姿勢で、廃墟の陥没だらけの道路に立ち尽くしている。
 先ほどまでと違うのは、周囲に王腐が欠片も存在していないこと。

「俺が奴を弱らせたところで、黄泉の幻に取り込む、と。雷禅は意外と器用になりやがったな」

 軀が、直方体から降りて伸びをする。

「大丈夫だ。ありゃあ、もう綺麗に蒸発したぜ。この場合、俺っていうか大日如来が器用なんだよな」

 大日如来の聖なる太陽に「呼ばれざる者」の司祭を放り込んで蒸発させた張本人が、一番気楽そうだ。

「めんどくせえから、ここから直接大聖堂ってのに繋げるぞ、いいな!?」

 雷禅が大雑把に扉を押し開けるように、何もなくなったその空間にを大きな拳で叩き開けたのだった。
85/88ページ
スキ