螺旋より外れて

『おおっと、これはー!? 第87ブロックの腐延選手の様子が急変しています!!』

 小兎がマイクに向けて叫ぶ。
 会場の巨大モニターに映し出されているのは、黄土色に蛍光緑やショッキングピンクが混ざったような色合いの、巨大な肉の塊のようなものである。
 まさに小山くらいもある。
 それが地面から湧き上がる泥流のように、蠢きながら大きくなっていくのだ。

「くっ!!」

 このブロックに割り当てられている一人である、修羅がその小さな体を素早く背後に退かせる。
 一瞬前まで、修羅がいた地面をけばけばしい泥流が飲み込み、更に大きくなり、やがて止まる。
 修羅が大きく息を吐き、地面に小さな足を踏ん張って間合いを取る。

『これは凄いことになりました!! 87ブロック、修羅選手と巨大化した腐延選手以外は消えてしまいました!! 腐延選手に呑まれてしまったようです!! なんという展開かーーー!?』

 小兎はモニターを見据え、素早く状況を分析する。
 腐延と呼ばれるそれは、さながらとんでもなく巨大化したアメーバである。
 本来、表皮が多少暗めの色合いの人間と同じような見た目だったはずだが、今や人間とは似ても似つかない。
 投げ縄のように伸縮する触腕が、修羅以外の78ブロック予選参加者を捕え、胴体内部に引きずり込んで消化してしまった。
 悲鳴ももう、聞こえない。

「修羅!? まさかこんな『呼ばれざる者』の手先が潜んでいたとは」

 黄泉が選手の控えの間で唸る。
 壁面の巨大モニターに、修羅が不気味な触腕から逃げ回る様子が映し出されている。
 黄泉はそれを見ている訳ではなく、大気が伝える87ブロック会場からの音や振動を頼りに、カメラどころではない明瞭な画像を脳裏に再生している。
 魔族にしても異様な相手が、修羅を食餌対象に定めているというのは、親として血も凍る恐ろしさである。



◆ ◇

「くっ!! なんだこいつ!!」

 修羅がその怪物を前に唸る。

「お前、『呼ばれざる者』って奴の信者か?」

 修羅の詰問に、泥流が動きを止める。
 波打つように蠢きながら、修羅の周囲を囲む。

「左様でございます、おぼっちゃま。トーナメントに参加しているしていないに関わらず、この会場にはかなりの数の信者がおり、『ここ』の担当がこのわたくし。それだけですヨ」

 言葉と共に、けばけばしい泥の上部から、何かがゆっくり生えてくる。
 髪らしきものが綺麗に生えそろった頭部、壮健な首、びしりと張った若々しい肩、芸術的な筋肉が巻き付いた、腕、胸から、彫り込まれたような腹。
 一見、それはなかなか美丈夫といえる若い男……に見える。
 元々、腐延はそういう姿で会場入りしたはずだ。
 ただ、先ほどまでと違うのは、その姿の方が仮の姿で、本体は下にくっついている毒々しい肉の山なのだということが、幼い修羅にも認識できるということ。

「僕を倒す役目を言いつけられたってことか? なら、無理だな!!」

 修羅はふんと鼻を鳴らす。
 可愛らしいばかりなのだが、その内側で燃える炎というべき闘志は激しい。

「ううん、まあ、それもありますけどね。あなたは障害にもならないんですよ残念ながら。我らの目的は魔界そのもの。……まあ、この辺の話はあなたにはまだ難しゅうございますよ。お父様の仰る通りに、後は大人たちに任せて棄権なさっては?」

 見た目に似合わず、世慣れた女みたいになよっと笑う腐延に、修羅は怪訝な顔を向ける。

「パパが……?」

「さっきから、叫んでおられますよぉ。修羅、棄権しろーだなんて。しまいに係員に掛け合うみたいですねえ。親の自分が申請する、修羅は棄権させろだなんて。まあ、あの策略の王者が気の毒なご様子で」

 けたけた笑われ、修羅は一瞬だけ会場外を睨んだが、すぐに腐延に視線を戻す。

「戦ってるのはパパじゃなくて僕だ!! お前が魔界をどうにかしたいんだったら、まずは僕を倒してみろ!!」

 腐延はにこりと微笑む。

「よござんす。じゃあ、わたくしどもの戦いを始めますかおぼっちゃん」

 言葉が終わらぬうち。
 修羅がいる場所が、巨大な肉塊によって取って代わられる。
 修羅の姿は見えない。
 そこにいるのは、悠々と蠢く、奇怪な肉の山だけ。
 本体から繋がり、もう一つの肉体のようにその場に広がっている。

「おや、あっけないんじゃありませんかねえ?」

 腐延がけろけろ笑う。
 が。

「ここだバーカ」

 声が聞こえたのは、腐延の人間体のすぐ後ろ。
 思わず振り返った腐延を、凄まじい輝きが包み込む。
 修羅が小さな手から放つ妖気砲で腐延の人間体を吹き飛ばしたのだ。

「やった!!」

 無残な切断面を見せて蠢く腐延の残骸を、修羅はその肉の一部を蹴って距離を取りながら見据える。
 父親の黄泉が油断するなと叫んでいるのだが、もちろん通常の知覚しか持たない修羅には聞こえない。

 しかし。

「えっ、な、なんだよ!?」

 修羅がぎょっとする。
 人間体を吹き飛ばされた腐延の切断面から、いきなりキラキラ輝く霧状の何かが噴出したのだ。

「キャアッ!?」

 状況を確認しようと降下してきた審判が、まずいと飛行型妖怪を上昇させる。
 光る霧で推し包まれた森は一瞬で腐敗して砕け、ぼろぼろの残骸となる。
 岩は焼け、地面から煙が立ち上る。
 異様な匂い。

『おっと、なんと、腐延選手の霧に推し包まれた会場のあらゆるものが腐っていくようです!! 樹木が倒壊しているようですが、あまりに霧が濃くて何も見えません!! 修羅選手は無事でしょうか!?』

 小兎の実況が響き渡る中、選手控室の黄泉が絶叫する様子が映し出される。
 黄泉の嗅覚に、それがどれだけ危険な霧かが如実に伝わってきているのだ。
 それが触れれば、黄泉自身でさえ危ない性質。
 リンクを得たとはいえ、圧倒的に経験不足の修羅では。

「さあ、審判さん。わたくしの勝利宣言をしてくださいませんかねえ。この霧では何も生き残れません。おぼっちゃんも腐ってしまわれましたよ」

 霧の中から、明らかに腐延の声がする。
 上空をどうしたものかとうろうろしていた審判は、相変わらず腐敗をもたらす霧によって近寄れず、困惑するばかりだ。

『あっと、これは、修羅選手万事休すか!? 全く動きはありません!!』

 小兎が呻いたその時。

「誰が腐っただって!?」

 まばゆいばかりの光の洪水が、死の輝きに包まれた霧を一気に吹き飛ばす。
 そのさっきまで霧に包まれていた場所、うずくまっていたかに見えた修羅が立ち上がったのだ。

「くらえ、得大勢流(とくだいせいりゅう)!!」

 まさに清らかさの洪水のような金色の流れが、霧はおろか、腐延の本体も飲み込む。
 一気に流され、どことも知れぬ場所へと消えた金色の洪水の後には、何も残っていない。
 消え去ったのは、腐延の方だったのだ。

『な、なんということでしょう!! 修羅選手逆転!! 腐延選手、完全に消えてしまいましたー!!!』

「おい、審判!! 僕が勝ったぞ!! さっさと勝利宣言しろよっ!!」

 朽ちた地面にぽつんと取り残された修羅の元に、慌てて審判が舞い降りて来る。
 巨大モニターに安堵のあまり顔を覆う父親の黄泉が映し出され、すぐさま修羅の勝利が宣言されたのだった。
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