螺旋より外れて
「『朝知らずの森』? なんだね、それは?」
幻海の寺の居間で、戸愚呂弟がそう尋ねる。
「聞いたことがないかい? 皿屋敷市の数ある心霊スポットの一つってやつさ」
幻海は、茶をすすりながらそう応じる。
座卓に向かって反対側では、戸愚呂兄弟が同じく茶をすすり、幻海の隣では永夜が茶菓子を並べている。
幻海が続ける。
「その昔……結界敷設前だろうね。昔の皿屋敷の市街とそんなに離れていないにも関わらず、昔から不吉な噂があって人の踏み入らない森があった。それが『朝知らずの森』。人を食う鬼が住んでいたとか何とか……」
それに応じたのは戸愚呂兄。
「ああ、聞いたことあるような。人が入って来ねェってんで、何十年か前に変質者が何人か女子供連れ込んで殺したとか何とか。昔の鬼に食い殺された古い霊も、最近の変質者に殺された奴の霊も出るって話じゃなかったか?」
せんべいをかじりながら呟く戸愚呂兄の後を弟が引き継ぐ。
「昔人食い鬼が……なんて話は、結界が敷かれる前なら、当然あちこちにありそうな話だねェ。不自然じゃない。街に近いのに人気(ひとけ)がない原生林なら、そりゃ変質者が入り込むのもあり得る話だ」
永夜は、兄弟の話にうなずく。
「不気味で陰惨な事件が過去のものだったら良かったのですがね。最近、また『人食い鬼』が住み着いたらしいのですよ」
戸愚呂弟がサングラスの下で目を底光らせたのがわかる。
「……その妖怪を俺たちに始末しろっていうのが、『試練』なのかねェ?」
今度は幻海が首を横に振る。
「そんな単純なのだったら、あたしらの『試練』にならないだろ。『朝知らずの森』に巣食っているのは、『呼ばれざる者』の信者なんだそうだ」
「ほォ」
戸愚呂弟の口調が微妙に変わる。
「そいつは具体的にどんな奴だか、わかっているのかねェ?」
永夜が幻海からの目配せを受けて応じる。
「昔からあちこちで活動している、なかなかしぶとくて質の悪い、禍報(かほう)という邪気の精霊でございますよ。ある意味、『呼ばれざる者』そのものの名代みたいなところのある者でございましてね。そいつの要求に応じると、願いを叶えてくれると」
戸愚呂兄弟が、顔を見合せる。
「そりゃ、どういうこった? そいつって何を要求してくるんだ? カネか? 女か?」
戸愚呂兄が怪訝そうに問いかけるのに、永夜が返した答えは。
「人肉です。それも、なるべく苦痛と絶望を感じて惨めに死んでいった、昏い霊気が染み込んだ人肉。そういう形の生贄を捧げろということでございますよ」
戸愚呂弟の眉間にしわが寄る。
兄の方は「徹底してるもんだな」と感心した様子。
永夜は更に続ける。
「『朝知らずの森』を根城にした禍報を倒して周辺の安全を確保すること。それが、幻海師範と戸愚呂さんご兄弟に課された試練にございますよ」
幻海がずいっと茶をすすってから顔を上げる。
「そういう訳だ。行くよ、『朝知らずの森』へ」
◇ ◆ ◇
「朝知らずの森」は、どこにあるのかはすぐにわかる。
確かに、街の中心部とさほど離れていないにも関わらず、鬱蒼としたほぼ原生林のような森が広がり、そのまま背後の山脈に繋がる。
山の方はキャンプ場などがあるごく平凡な日本の地方の山なのだが、「朝知らずの森」だけは特殊だ。
元々神聖な禁足地だったものが後年様々な事件や噂話に飾られるうちに不吉な場所になっただとか、実際に足を踏み入れると何かが起こるのだとか。
今流行りの心霊スポットということにもなり、大抵の冷やかしは、森の周辺部を少しうろついただけで何かがいたとかいないとか言いながら帰っていくだけだ。
「ずいぶん地相のおかしな森だねェ」
戸愚呂弟はいつものように兄を肩に乗せたまま、森の側までやって来ている。
隣に幻海、反対側に永夜。
戸愚呂の言葉に応じたのは幻海である。
「そういう森だから、並みの人間には警戒されて、後ろ暗い者たちは逃げ込むのさ。ただの森と思わない方がいい。『呼ばれざる者』の手先が入り込んでいるなら、地相が更に歪んで、そのまんま地獄みたいになってるだろうね」
永夜が後を引き取る。
「昔は、本当に人間の死骸を捨てておく場所だったそうにございますよ。大量の死。ますます地相は歪んだ訳にございます」
戸愚呂兄が品が悪い笑い方をする。
「中を覗き込んでみな。昼間だってのに真っ暗だ。朝が来ねェみてえだから『朝知らずの森』って訳かい。いかにもロクでもなさそうなのが集まって来る訳だなァ」
幻海が、すいっと一歩踏み出す。
「行くよ」
そのまま、彼女について全員がわずかに開けた外周部を通り、森の中に踏み込む。
「……っておい、何だよこりゃあ!?」
戸愚呂兄が頓狂な声を上げる。
森の内部は、明かに人間界としてはおかしい。
いや、魔界的とも言い難い奇妙さである。
伐採の手がほとんど入ったことがなく、日本の原生林であるはずなのに、どう考えても有り得ない、子供よりも巨大なくらいの花が咲いている。
妙につるりとして見える樹木の樹皮は、墨でも塗りたくったかのように真っ黒だ。
ヒカリゴケでも生えているかのように、黒い中にもうっすら輝いている部分があるのが実に非現実的である。
空中には、この春先に螢なのか何なのか、ぼんやり光る虫が浮遊している。
「これは……魔界に繋がっているってことなのかねェ?」
戸愚呂弟がゆっくり首を巡らせる。
「魔界ではありませんね。元々不安定な地相のせいで、入り込んだ『呼ばれざる者』の手の者の力を受けて、その神域のようになっているのですよ。要するにこの空間は『呼ばれざる者』の信徒が有利」
ほぉん、と戸愚呂兄が鼻を鳴らす。
「そういう地相で、俺たちに『呼ばれざる者』の手先を始末しろってか? そりゃいい試練だな?」
「だが……そのくらいでなきゃ、この降三世明王のリンクの力は生かせないだろう。文句は言いっこなしだ、兄者」
戸愚呂弟がそう断じた時。
ふと、幻海が足を止める。
「……おでましのようだよ」
全員が彼女の視線の向かう先を見やる。
そこにいたのは、女の子。
六つか七つくらいか。
上品なオレンジと白のワンピースの子供服に、可愛らしい黄色いショートブーツ。
それと――彼女の「首輪」から繋がる鎖を手にしている、小柄で尖った印象の、燕尾服の男。
「ヨゥヨゥヨゥ!! よくぞ来られた、『呼ばれざる者』の領域へ!! 歓迎するぜァ!!」
踊るように手足を動かしながら、その小男が叫ぶ。
そいつが動くたびに、首輪を付けられた女の子が鎖に引っ張られてぐらぐら動く。
長い髪が垂れていて表情は見えないが、恐怖のせいか、全身強張っている様子がうかがえる。
「なんだァ、てめえは!!」
さしもの戸愚呂兄がいささか面食らった様子。
弟の方は、サングラスの下で眉間にしわを寄せる。
「この気配……まず間違いなく『呼ばれざる者』の手の者ですね」
異様な光景に嫌悪感を滲ませて、永夜が低く呟く。
「あの女の子は生贄として連れて来られた子供……何であんなことをしている?」
意図が理解できないのか、幻海は美しい顔立ちをしかめてその異様な光景を睨み据える。
「まあ、おめえらが理解できる日は永遠に来ねェよゥ!! こいつらとでも遊んでなァ!!」
いきなり、木の根だらけの地面がぼこぼこと脈動するように蠢き出す。
「!!」
驚くほど短い時間。
木の根のあちこちからこぶ状のものが生え。
それが、巨大な爪を鳴らす、巨躯の獣のような姿となって、地面から躍り出て来たのである。
幻海の寺の居間で、戸愚呂弟がそう尋ねる。
「聞いたことがないかい? 皿屋敷市の数ある心霊スポットの一つってやつさ」
幻海は、茶をすすりながらそう応じる。
座卓に向かって反対側では、戸愚呂兄弟が同じく茶をすすり、幻海の隣では永夜が茶菓子を並べている。
幻海が続ける。
「その昔……結界敷設前だろうね。昔の皿屋敷の市街とそんなに離れていないにも関わらず、昔から不吉な噂があって人の踏み入らない森があった。それが『朝知らずの森』。人を食う鬼が住んでいたとか何とか……」
それに応じたのは戸愚呂兄。
「ああ、聞いたことあるような。人が入って来ねェってんで、何十年か前に変質者が何人か女子供連れ込んで殺したとか何とか。昔の鬼に食い殺された古い霊も、最近の変質者に殺された奴の霊も出るって話じゃなかったか?」
せんべいをかじりながら呟く戸愚呂兄の後を弟が引き継ぐ。
「昔人食い鬼が……なんて話は、結界が敷かれる前なら、当然あちこちにありそうな話だねェ。不自然じゃない。街に近いのに人気(ひとけ)がない原生林なら、そりゃ変質者が入り込むのもあり得る話だ」
永夜は、兄弟の話にうなずく。
「不気味で陰惨な事件が過去のものだったら良かったのですがね。最近、また『人食い鬼』が住み着いたらしいのですよ」
戸愚呂弟がサングラスの下で目を底光らせたのがわかる。
「……その妖怪を俺たちに始末しろっていうのが、『試練』なのかねェ?」
今度は幻海が首を横に振る。
「そんな単純なのだったら、あたしらの『試練』にならないだろ。『朝知らずの森』に巣食っているのは、『呼ばれざる者』の信者なんだそうだ」
「ほォ」
戸愚呂弟の口調が微妙に変わる。
「そいつは具体的にどんな奴だか、わかっているのかねェ?」
永夜が幻海からの目配せを受けて応じる。
「昔からあちこちで活動している、なかなかしぶとくて質の悪い、禍報(かほう)という邪気の精霊でございますよ。ある意味、『呼ばれざる者』そのものの名代みたいなところのある者でございましてね。そいつの要求に応じると、願いを叶えてくれると」
戸愚呂兄弟が、顔を見合せる。
「そりゃ、どういうこった? そいつって何を要求してくるんだ? カネか? 女か?」
戸愚呂兄が怪訝そうに問いかけるのに、永夜が返した答えは。
「人肉です。それも、なるべく苦痛と絶望を感じて惨めに死んでいった、昏い霊気が染み込んだ人肉。そういう形の生贄を捧げろということでございますよ」
戸愚呂弟の眉間にしわが寄る。
兄の方は「徹底してるもんだな」と感心した様子。
永夜は更に続ける。
「『朝知らずの森』を根城にした禍報を倒して周辺の安全を確保すること。それが、幻海師範と戸愚呂さんご兄弟に課された試練にございますよ」
幻海がずいっと茶をすすってから顔を上げる。
「そういう訳だ。行くよ、『朝知らずの森』へ」
◇ ◆ ◇
「朝知らずの森」は、どこにあるのかはすぐにわかる。
確かに、街の中心部とさほど離れていないにも関わらず、鬱蒼としたほぼ原生林のような森が広がり、そのまま背後の山脈に繋がる。
山の方はキャンプ場などがあるごく平凡な日本の地方の山なのだが、「朝知らずの森」だけは特殊だ。
元々神聖な禁足地だったものが後年様々な事件や噂話に飾られるうちに不吉な場所になっただとか、実際に足を踏み入れると何かが起こるのだとか。
今流行りの心霊スポットということにもなり、大抵の冷やかしは、森の周辺部を少しうろついただけで何かがいたとかいないとか言いながら帰っていくだけだ。
「ずいぶん地相のおかしな森だねェ」
戸愚呂弟はいつものように兄を肩に乗せたまま、森の側までやって来ている。
隣に幻海、反対側に永夜。
戸愚呂の言葉に応じたのは幻海である。
「そういう森だから、並みの人間には警戒されて、後ろ暗い者たちは逃げ込むのさ。ただの森と思わない方がいい。『呼ばれざる者』の手先が入り込んでいるなら、地相が更に歪んで、そのまんま地獄みたいになってるだろうね」
永夜が後を引き取る。
「昔は、本当に人間の死骸を捨てておく場所だったそうにございますよ。大量の死。ますます地相は歪んだ訳にございます」
戸愚呂兄が品が悪い笑い方をする。
「中を覗き込んでみな。昼間だってのに真っ暗だ。朝が来ねェみてえだから『朝知らずの森』って訳かい。いかにもロクでもなさそうなのが集まって来る訳だなァ」
幻海が、すいっと一歩踏み出す。
「行くよ」
そのまま、彼女について全員がわずかに開けた外周部を通り、森の中に踏み込む。
「……っておい、何だよこりゃあ!?」
戸愚呂兄が頓狂な声を上げる。
森の内部は、明かに人間界としてはおかしい。
いや、魔界的とも言い難い奇妙さである。
伐採の手がほとんど入ったことがなく、日本の原生林であるはずなのに、どう考えても有り得ない、子供よりも巨大なくらいの花が咲いている。
妙につるりとして見える樹木の樹皮は、墨でも塗りたくったかのように真っ黒だ。
ヒカリゴケでも生えているかのように、黒い中にもうっすら輝いている部分があるのが実に非現実的である。
空中には、この春先に螢なのか何なのか、ぼんやり光る虫が浮遊している。
「これは……魔界に繋がっているってことなのかねェ?」
戸愚呂弟がゆっくり首を巡らせる。
「魔界ではありませんね。元々不安定な地相のせいで、入り込んだ『呼ばれざる者』の手の者の力を受けて、その神域のようになっているのですよ。要するにこの空間は『呼ばれざる者』の信徒が有利」
ほぉん、と戸愚呂兄が鼻を鳴らす。
「そういう地相で、俺たちに『呼ばれざる者』の手先を始末しろってか? そりゃいい試練だな?」
「だが……そのくらいでなきゃ、この降三世明王のリンクの力は生かせないだろう。文句は言いっこなしだ、兄者」
戸愚呂弟がそう断じた時。
ふと、幻海が足を止める。
「……おでましのようだよ」
全員が彼女の視線の向かう先を見やる。
そこにいたのは、女の子。
六つか七つくらいか。
上品なオレンジと白のワンピースの子供服に、可愛らしい黄色いショートブーツ。
それと――彼女の「首輪」から繋がる鎖を手にしている、小柄で尖った印象の、燕尾服の男。
「ヨゥヨゥヨゥ!! よくぞ来られた、『呼ばれざる者』の領域へ!! 歓迎するぜァ!!」
踊るように手足を動かしながら、その小男が叫ぶ。
そいつが動くたびに、首輪を付けられた女の子が鎖に引っ張られてぐらぐら動く。
長い髪が垂れていて表情は見えないが、恐怖のせいか、全身強張っている様子がうかがえる。
「なんだァ、てめえは!!」
さしもの戸愚呂兄がいささか面食らった様子。
弟の方は、サングラスの下で眉間にしわを寄せる。
「この気配……まず間違いなく『呼ばれざる者』の手の者ですね」
異様な光景に嫌悪感を滲ませて、永夜が低く呟く。
「あの女の子は生贄として連れて来られた子供……何であんなことをしている?」
意図が理解できないのか、幻海は美しい顔立ちをしかめてその異様な光景を睨み据える。
「まあ、おめえらが理解できる日は永遠に来ねェよゥ!! こいつらとでも遊んでなァ!!」
いきなり、木の根だらけの地面がぼこぼこと脈動するように蠢き出す。
「!!」
驚くほど短い時間。
木の根のあちこちからこぶ状のものが生え。
それが、巨大な爪を鳴らす、巨躯の獣のような姿となって、地面から躍り出て来たのである。