螺旋より外れて

「ほぉん。これが地獄ってやつか? また色々いやがるな」

「こんなのが色々いてたまるか。非常事態だよ」

 永夜の肩に乗った戸愚呂兄が周囲の異様さをこう評すると、幻海があっさり否定する。

 風景は一見「地獄そのもの」に見える。
 焼け焦げたような岩だらけの地面。
 本当に火山のような硫黄臭が漂う。

 霊界の通常では、その間で焼かれている罪人や、責めさいなむ獄卒がいるはずである。
 確かに炎を湛えた池が見えるが、そこで焼かれる罪人の姿は、今は見えない。
 代わりにいるのは……

 空豆みたいな形の頭部を複数備えた、肢が昆虫のようなぶよぶよした胴体の何か。
 スライム状の全身が常に変形する、虹色の巨大な生き物。
 無数の突起の先に全部違う顔が付いた、奇怪なウニ状の動くもの。
 その他無数、悪夢としか思えないようなものがうじゃうじゃと蠢く。
 到底人間や通常の妖怪とはかけ離れた姿。

 そいつらは地獄の責め苦などお構いなしに、周囲に思い思いに漂っているようだ。
 獄卒は見えない。
 結局霊界人の一種でしかない彼らは、とっくの昔に退避したということか。
 コエンマが口にしていた通りである。

「……なるほど、これは酷い。確かに冥獄界に収容された罪人の方々が、『呼ばれざる者』に浸食されて怪物化しているというのは事実なようですね」

 永夜は手の中に暗黒の球体を呼び出して構える。

「戸愚呂さん」

「おう」

 瞬時に戸愚呂兄が剣に変化して永夜の手の中に収まる。
 永夜は戸愚呂兄が変化した剣に暗黒を纏わせ、山津波のように殺到する怪物に向け、頭上で円を描くように打ち振る。

 なんとも表現のしようのない音。
 いや、幻聴であったのか。
 輝く闇が広がり薙ぎ払った周囲は、嘘のように怪物どもが消えていたのだ。
 まるでレイヤーを取り払ったように、綺麗に「何もない」。
 焦げて硫黄臭い荒野が、物も言わず、ただ悠々と広がっているだけ。

「ふん。こんなもんか」

 剣から人間形態に戻った戸愚呂兄は得意げだ。

「しばらく何もないでしょうね。今のうちに奥まで進みましょう」

 永夜が提案すると、幻海がうなずく。

「多分、今の奴らの動きで、侵入者があったということは奥にいる奴にも伝わっただろうからね。さっさと進んで目的地に突っ込むに限る。逃げ隠れしても、ここに詰め込まれていた罪人全部が『呼ばれざる者』のレーダーなら無駄さ」

 全員が何となく戸愚呂弟の姿を探すが、それらしい存在は見えなかったのだ。
 やはり、切り札として奥に匿われているということか。

 戸愚呂兄を肩に乗せた永夜と幻海は、共に縮地法を駆使してどんどんと冥獄界の奥に進む。
 曲者がいなくなったのは一区画だけで、奥に進めば、どんどん例の不気味なモノが増えて来る。
 三人は、それぞれのやり方で、そいつらを吹き飛ばしながら奥へと進むのみだ。

 コエンマは言っていた。

『初めは、冥獄界のごく一部の異変であった』

 と。

『冥獄界に収容されている罪人が、見たこともない不気味な怪物に変容してしまうのだ。最初は一人二人。対処がわからぬ内に、五人十人。まずいと対策を練っている間に、冥獄界の半分』

 重い息を洩らしながら、コエンマは幻海たちに白状したものだ。

『一夜明けてみれば、冥獄界は「呼ばれざる者」の手先の収容所と化していた。我らにできたことは、冥獄界を閉ざすことだけだ』

 まさかこんなことだとは、元霊界探偵の幽助はもちろん、事情通の蔵馬も、そして霊界と元々深く繋がっていた幻海も知らされておらず。
 異変はそれだけ急激で深刻過ぎるものであったのだ。

「しかし、あの戸愚呂のニセモノが地上に這い出していたんだから、冥獄界を霊界側で閉ざしたといっても、『呼ばれざる者』の手の者にとっては、簡単に地上に抜けられる穴があったということだね」

 幻海が、淡々と推論を述べる。
 永夜はうなずきを返す。

「そういうことにございます。穢れているとはいえ、『呼ばれざる者』も神の一種。下界の力では、抑えることは不可能なのでございます」

 永夜の言葉を聞いた戸愚呂兄が、その肩の上で鼻を鳴らす。

「どの道、この奥にいる奴をどうにかすればこの異変とやらも収まるんだろう。そいつのところに弟もいるってことなんだな? さっさと進むぞ」

「ええ、参りましょう。あ、ここから奥へ飛べますね」

 永夜が、幻海にも合図を送って縮地法で飛ぶ。

「……あいつの気配がするな」

 幻海の呟きを、誰が耳にしたか。

 景色が変わる。
 どろどろしたマグマの池のような場所に、三人は……

「戸愚呂!!」

 幻海が思わずといったように叫ぶ。

 そこには、探し求めていた戸愚呂弟が、いたのだ。
 いや、いすぎるというべきか。

 どうした訳か、「戸愚呂弟」は一人ではなかったのだ。
 100%のあの異様な姿で、それが軍団を成すほどに、巨大な壁を作っている。
 ブルドーザーのように、マグマの池のふちまでびっしりと。

「幻海……」

「ゲンカイ」

「げん、かい……」

 口々にうわごとのような調子で幻海の名を呼びながら、「戸愚呂弟軍団」は幻海に、そして戸愚呂兄にも永夜にも迫って来る。
 大気が異様な匂いに満ちているのは、マグマが間近にあるからではなかろう。
 戸愚呂の酸の妖気が、大気に充満しているからである。

 全員が気付く。
 神の力を帯びて下界の力には干渉されないはずの三人の神気が、戸愚呂弟の酸の妖気に干渉され、わずかに削られている。
 このニセ戸愚呂弟が、「呼ばれざる者」の手の者の力を帯びている何よりの証拠。

「まずいですね」

 永夜が呻く。

「このニセモノさんたちを誰かが食い止めねばならない」

「兄。それから永夜」

 不意に、幻海が口を開く。

「ここを頼めるか? あたしはこの後ろにいる奴とやり合う。多分奴が本体の戸愚呂弟だ」

 幻海は、すでにこの戸愚呂の壁の背後に匿われている気配を見抜いている。
 そうだ、本来なら戸愚呂弟は一人しかいない。
 この「軍団」がコピーされたニセモノなら、その大元になった本体が一人、どこかにいるはずなのだ。

「わかりました。支援しますので、幻海師範はこの人たちの向こうに」

 永夜がうなずき、戸愚呂兄を腕に乗せたまま、その腕を髙く差し上げる。

「戸愚呂さん!!」

「おう!!」

 まるで何十年もコンビを組んでいるように戸愚呂兄は永夜の腕に沿って、長大な槍となり。
 その先端に、巨大な「輝く暗黒」を生じさせる。

 上空で炸裂する核兵器のように、暗黒が大爆発を起こす。
 輝く黒い波に曝された戸愚呂弟の壁成すニセモノたちは、世界の終末をもたらす大黒天の力の前に、あえなく灰となり、ボロボロと崩れていく。

 幻海は、それと同時に動く。
 崩れていくニセモノ戸愚呂弟の肩を蹴り、どんどんその分厚い壁の向こうへと走る。
 小柄な体は、そこだけ光溢れる空があるかのように、鳥となって軽やかに迫る闇と崩壊する巨躯を蹴って奥へと進む。

「ようやく見つけたよ」

 幻海が最後に崩壊するニセ戸愚呂を蹴って降り立ったその場所。

 目の前に、戸愚呂弟が、いたのだ。
 姿だけ十一面観音のように、額に別物の怪物の顔を生じさせ、抉られて内臓が取り去られた腹部に、更に巨大な顔を埋め込んだ、奇怪な姿となって。

「幻海……」

 聞き覚えのある低い声で、戸愚呂は目の前の武闘家に呼び掛けたのだった。
62/88ページ
スキ