螺旋より外れて

 撃の背中に乗った幻海は、眼下に広がるその光景を見下ろす。

 海のように広大な湖が、瑠璃色の表面に銀の鱗を散らして輝いている。
 はるか遠くに水平線と地平線。
 覆い被さる無窮の天蓋。
 湖の只中には、かなり大きな島が見える。
 翡翠色の輝き、それに包まれるように白い石造りの宮殿が照り映える。

「あそこが、軍荼利明王の居城にございます」

 幻海の前、撃の首の付け根に座っている永夜が、振り返ってそう告げる。

「ふん。密教天界でも屈指の実力者、軍荼利明王かい……あたしの結縁仏だね。まさかこういう形でお声がかかるとは」

 幻海が密教の行者になった時、儀式によって縁を結んだとされているのが軍荼利明王である。
 一般的な言葉で言えば守護神のようなものであり、幻海は寺でもこの仏を祀っているが、まさか「本人」とこういう形で直接出会うなど、行者であるからこそ信じられない事態ではある。

 幻海に、軍荼利明王から宿神を与えるという言葉を言い使って来たのは、他ならぬ永夜である。
 彼の身内たちはじめ、魔界組や人間界組の宿神やリンク、訓練の期間の間、幻海にもまた宿神を与え、若返らせて「呼ばれざる者」との戦列に加わってもらおうという意見は、密教天界でも根強かったのだ。
 幽助や雷禅たちの宿神やリンクが上手く行きそうであると判明した時、これは幻海も外せないという決断が下されたのである。
 しかも、当の幻海自身は寿命が迫っている身。
 そして状況的に、このままでは確実に「呼ばれざる者」の標的に加えられる。
 幻海に宿神を与えない理由はなかったのだ。

「さ、着きますよ」

 永夜が輝く真っ白な宮殿の側に撃を降下させる。
 既に水の香りの涼しい宮殿の庭には、連絡を受けていたのであろう天人天女が待ち受けている。

「さて。軍荼利明王。どんな方かね」

 天女の一人に先導されながら宮殿への門をくぐる幻海が誰にともなく呟く。

「ノリのいい方ですよ。女性の仏尊であらせられるのもあって、幻海師範と気が合うと思いますよ。あちら様は、すでに幻海師範をお気に召しておられて、他の仏尊に何かと自慢されているくらいです」

 精緻な彫刻を施された柱の並ぶ回廊を渡りながら、永夜は並んで歩く幻海に歩調を合わせる。

「軍荼利明王に限ったことじゃないが……多分、『宿仏』を与えるというのは、本来慎重に執り行われる術法であるはずだ。それを急に何人にも施すということは、『呼ばれざる者』の攻勢が、今後手段を選ばぬ激しいものになるっていうことだろう」

 幻海が問うと、永夜はあっさりうなずく。

「およそその通りでございます。奴らはやり方を変えた。各界の影の部分に、今まで通り闇の帝王として君臨するのは難しくなってしまった。ある程度の表だった支配が必要と判断したはずです。ある意味、昔に戻ったのでしょうね」

「……幽助のトーナメント開催の提案がきっかけか」

「そうでございますね。それで大幅に計算が狂った模様です。霊界も変わりつつあり、今までのやり方が通じなくなってきた。ならば奴らも逃げ隠れだけで済ませることはやめにしたということでしょう」

 永夜の返事を聞いて、幻海は考え込む。
 齢七百歳を超える永夜ならともかく、人間の基準でいえば老人ではあるが、百年も生きていない幻海では、経験に頼ることもできない。

 経験したこともない激動の時代が来る。
 死んで逃げおおせることも許されない時代が。

「幻海師範と、永夜様をお連れいたしました」

 天女が告げ、目の前の扉を開く。

 様々な動物や怪物の彫刻が林立する石造りの華麗な広間の奥、髙くなった壇上に巨大な紅玉の玉座が据えられ、そこに長身の女が座している。

 ただの女ではない。
 夜空のように藍色の肌。
 八本の腕に、星のように輝く大蛇をまつわらせている。
 金色の神は長く豊かでたてがみのよう、厚めの唇、熱っぽい目の、妙に色っぽい顔立ち。
 白い衣で最低限覆われた肌は、女性美を結集したような豊満さ。

「あら、よく来たわねえ、幻海ちゃん。待ってたわヨウ。あなたのことは、子供の頃から知っているけど、会うのは初めてよネェ?」

 鼻にかかった、甘く響きの豊かな声。
 幻海は永夜に促されるまま、その前に進み出る。

「あんたが、軍荼利明王か」

 幻海は一礼し、くいと顔を真正面から自分の宿仏になろうというその尊格に向ける。
 昇華することで神秘の力を与える性的エネルギー、クンダリーニの化身であるという、その仏。

「話は聞いた。あんたの力を分けてもらうためには、どうすればいい?」

 幻海が言い終わらぬ前に、軍荼利明王は玉座から立ち上がる。
 段を降り、幻海の前に立つ。

「条件なんかはネェ、いらないのヨゥ」

 匂い立つような女の仏尊が老女修行者の胸に柔らかな掌を乗せる。

「あたしをあげるワァ……幻海ちゃん」

 炸裂するような光。
 間欠泉のように湧き上がり、幻海の小柄な全身を押し包む。

 一瞬の沈黙の後。

 そこにいたのは、あの暗黒武術会で見せた、霊波動が最高潮に高まり二十歳前後に若返った幻海だったのだ。


 ◇ ◆ ◇

「さて。では、参りますよ」

「ああ」

 軍荼利明王の宮殿のある湖の中の島から離れた原野。
 緑の草が燃え立ち、鮮やかな花の咲くその草原に、幻海と永夜が向き合っている。

『自分の力を試してみたいデショウ? 永夜とやりあってごらんナサイナ』

 そう勧められて、幻海は永夜と共にここにいる。

『永夜とやって、実力を確認デキタラ、あたしから使命をあげるからネェ』

 どうも、ただより髙いものはなかったらしい。
 この軍荼利明王の分霊を受ける代わりに、するべきことはすでに承諾したことになるようだ。
 仏のくせに食えない女だねと、幻海は内心一人ごちる。

「参りますよ」

 永夜の全身から、煌々と輝く闇というべきものが迸る。
 凄まじい重力を纏う闇の玉は、周囲の地面を抉り幻海に……

「霊光鏡反衝!!」

 幻海の全身から迸った真白い光に呑まれた闇は、さかしまに反転した濁流となって永夜を呑み込んだのだった。
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