螺旋より外れて

「……!!」

 幻海の小柄な老躯が吹っ飛ぶ。

 街中は、人の気配がなくなっている。
 幻海が「そいつら」を必死に引き付けている間に逃げ出したのだろう。
 浮足立った春の午後。
 あわあわと降り注ぐ日差しに、くっきりと浮かび上がるは、異様な影だ。
 傷だらけの幻海に向き合っているそいつらは、都合六体。
 妖怪なのだろうか。
 無数の腕なのか触手なのか……が生えた上半身に、なめくじのような下半身で、風のように動く者。
 無数の角に見えるが、全部の先端がナイフのように尖って、弾丸のように射出される奇怪な器官を備えた者。
 他にも、幻海は見た記憶がない妙なものが、そこここに蠢いている。

「くっ……!! おのれ……!!」

 幻海はぐらぐらくる視界のまま立ち上がる。
 頭部から流れ落ちた血で、しわの深い顔はまだらに染まっている。
 霊光波動拳の正統後継者を謳われた幻海であるが、とうにその資質は幽助に譲渡している。
 そして、その幽助は、今や魔界に渡って、今までとは段違いの敵と戦っているはずである。
 最近連絡があったところでは、魔族でも人間でも霊界人でもない、恐ろしく質の悪い敵が出現し、魔界の動乱そっちのけでそちらと戦わなくてはならなくなったという。
 気になる情報であったが、実感はなかった。
 しかし、今となっては。

『こういうことか……!!』

 幻海は、ゆっくり仲間であろうその生き物たちを掻き分けて来る「彼」を見上げて歯噛みする。

「幻海……」

「彼」が唸る。
 地獄の底から響いてくるようなおぞましい声音で。
 いや、確かに彼は今、本当に地獄の底にいるはずであり、こんな街中にいるはずがないのであるが。

 そこにいるのは、石のような黒灰色の肌を持つ巨躯の男。
 単なる大柄ではなく、その全身はもう筋肉というより他のものとしか思えないような発達具合の筋肉で覆われている。
 道路の街路樹は、つい先ほどまで新緑が萌え出ていたにも関わらず、今は冬枯れに戻ったかのように、葉が落ちて灰色に立ち枯れている。
 その巨大な男が自らの纏う瘴気が、周囲の生命を損なっているのだ。
 幻海の到着がもっと遅かったら、人間の間にも数百人は下らぬ犠牲が出たかも知れない。

「幻海。なぜ、お前はそんな姿でそこにいる」

「彼」が、ここにいるはずのない「戸愚呂弟」が、地面を揺らすかのような声で問いかける。

「何だっていうんだい……?」

 幻海は、全く理屈に合わないこの状況に困惑しながらも、戸愚呂の目的を確認せねばと目を凝らし、耳を澄ます。
 そいつは、確かに戸愚呂なのだ。
 よく見知った、あの妖気。
 若い頃から馴染んでいたあの霊気が、妖気に転換されたものだと、くっきりと認識できる。

「お前は醜い無力な老人だ。なぜ、現世にしがみついている。この世を去るべきだ。俺が地獄にいるというのに、お前は何故地上を歩いていられる」

 確かに戸愚呂の声で放たれたその恨み言に、幻海は違和感を覚える。
 道理の通らない理不尽な言いがかりだというだけではない。
 戸愚呂がこんなことを言うだろうか?
 あいつの言い分は、独善的ではあるが卑しくはなかったはず。
 だが、今の戸愚呂のセリフは、まるで僻み根性でできているような。

「戸愚呂。お前は冥獄界にいるはず。どうやって地上に戻って来れたというんだ!?」

 幻海は根本的な疑問をぶつける。
 しかも、目の前の戸愚呂は、死者であるにも関わらず、確かに肉体を備えているのだ。
 戸愚呂の崩壊した肉体の残骸は、あの暗黒武術会の闘技場のガレキの下であるはず。
 誰かがあの膨大なガレキを撤去して再生させたとは考えにくい。

 こいつは何だ。
 本当に戸愚呂なのか。
 戸愚呂じゃないならこの強さは不自然。
 戸愚呂だとするなら、どうやって肉体を再生させたのだ。

「ふん!!」

 戸愚呂が、巨大な拳を打ち下ろす。
 まるで至近距離でミサイルが着弾したかのような衝撃。

 アスファルトの地面が、バラバラに砕けて四方八方に飛び散る。
 周囲のビルの窓ガラスが粉々に粉砕される。
 幻海の小柄な体は、アスファルトとガラス片に巻き込まれるように吹っ飛ばされる。

 咄嗟に、幻海ははるか背後に飛び退き、安全距離まで後退して着地しようとする。
 しかし、戸愚呂は読んでいたのだ。
 幻海の宙を舞う体に、拳を突き出す。

 雷のような轟音と共に、衝撃波の塊が幻海を追撃する。
 まともに食らって、幻海は気が遠くなる。
 受け身もままならず、そのままビルの壁面に……

 ふわりと、空気が動いた気がする。
 朦朧とした幻海の体が、何かに抱き留められ暖かい腕に包まれる。
 幻海は、視界に淡い金色の布地のようなものを認識する。
 誰だ。
 身に覚えのない、霊気。

「さて、戸愚呂さん。おいたはおやめなさい」

 凛とした深い声が耳朶を打つ。
 戸愚呂は動きを止めているようだ。
 背後の怪物も……

 いや。
 いつの間にか、あの魔族ですらない化け物どもがどこにもいなくなっている。
 立っているのは、戸愚呂だけだ。

 幻海はあまりの急展開に、消え失せそうな意識を叱咤して周囲を認識しようとする。

 自分の体は、誰かに片腕で抱えられているようである。
 淡い月のような金色の、直垂のような衣装の胸元が見える。
 そこから漏れ出る霊気で、幻海はそれが若く見える男だと認める。

 誰だ。

 見上げた顔は、水面を思わせる碧い目と、抜けるような色白の、整った目鼻を備えた見知らぬものだ。

 その若い男が身じろぎする。
 抱えられた腕と反対側の腕に、その男が太刀らしき武器を構えているのを、ようやく幻海は気付く。

「さようなら。戸愚呂さんの……ニセモノさん」

 若い男が冷たく言い放つと同時に、打ち振った太刀から先鋭化した霊気ですらない気が迸る。

 一瞬。

 戸愚呂の、あの巌のような巨躯は、まるでミキサーにかけた果物ばりに粉々になって、空中に飛び散っていたのであった。
56/88ページ
スキ